新潮社

 page 3トリニティ〔 page 3/3 〕

 鈴子も同じ方に目をやった。喪服に身を包み、銀髪を顎のあたりのボブに揃えた一人の老女が歩いてくる。近づくにつれ、喪服のように見えていた服が黒いワンピースなのだとわかる。ずっと昔のコムデギャルソンだろうか。登紀子さんだわ。それはいつかの新宿の喫茶店で見た登紀子でなく、もっとずっと昔、鈴子がまだ会社にいた頃、夜遅くまで机に向かって原稿用紙の升目を埋めていた登紀子の姿に近かった。もちろん自分よりも年上の、八十近い女性だ。腰も少し曲がっているような気もするし、顔の皺も深い。けれど、歩いてくる登紀子には、どうしてもこの場所に来るのだ、という気迫のようなものすら感じられた。その場所に集っていた幾人かが登紀子の姿を認めて会釈をしたが、言葉をかける人はいない。登紀子は鈴子の姿に気づいていないようだ。しばらく迷った末に思い切って登紀子に声をかけた。
「佐竹さん。宮野です。宮野鈴子です」
 あ、という顔をして小柄な登紀子が鈴子を見上げる。隣にいた奈帆も慌ててマスクを取り、登紀子に頭を下げた。そのとき、ホールの向こうのほうから声がした。
「早川朔さまの棺に色紙を入れたいと思いますので、皆様ご一筆をお願いいたします」
 声を張り上げている男性は喪主でなく、たぶん葬儀会社の人なのだろうと思った。だとしたら、やはりここに集まっている人たちが早川朔の直葬に立ち会う人たちなのか。本人の遺志だとしても、あれだけ名を馳せたイラストレーターを送る場所として、あまりにも寂しすぎないだろうか。息子さんがいたはずなのにそれらしき人もいない。回された色紙は色とりどりのマーカーと共にすぐに鈴子のほうにも回ってきた。鈴子は目の前の登紀子に渡そうと差し出したが、登紀子は書く気がないのか、ただ、首を横に振る。鈴子もいったんはマーカーのキャップを外したが何を書いていいのかわからず、キャップを元に戻して色紙を別の人に回した。こんな子どもじみた方法で早川朔を弔うことに抵抗があった。

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 ホールの中央に並んだ黒い椅子に登紀子が腰掛けた。離れた場所に鈴子と奈帆も腰を下ろす。
「佐竹登紀子さんよ。有名なフリーライターなの」登紀子のほうを見ながら鈴子がそう言うと、奈帆がぎょっとした顔で鈴子を見た。
「えっ。佐竹登紀子ってまだ生きているの?!」
 その声が思いもかけず大きかったので、たしなめるように奈帆の膝に手を置いた。
「奈帆、登紀子さんのこと、知っているの?」
「就活のためにログストアの昔の雑誌、読みあさってたけど、女性誌には必ず名前があったから。それで佐竹さんの書いた本も読みたくて本屋さんに行ったんだけど本屋さんにはなくて図書館で借りて読んだの」
 早口で奈帆が耳元でつぶやく。
「おばあちゃんの知り合いなの?」
 ええ、と頷いたとき、先ほどの男性が再びやって来た。早川朔さまの棺のなかに花を入れてあげてください、と静かに皆に伝えている。火葬場の扉の前、広いホールの中央に開かれた棺が目に入った。斎場のスタッフだろうか、お盆のようなトレイの上に置かれた生花を配っている。皆が花を手に取り、遺体のまわりに花を添えていく。鈴子もカサブランカを手にとり、棺の中をのぞき込んだ。まるで子どものように小柄な早川朔の体がそこにあった。背は鈴子や登紀子よりずっと小さかったが、仕事の仕方同様にエネルギッシュな人だった。誰が持ってきたのだろう、彼女が生前に描いたイラストが胸のあたりに置かれていた。棺を囲んでいるのは三十人にも満たない人たちだ。これが早川朔の最後だろうか、と思うと、鈴子はふいに胸をつかれた。あまりにも寂しくはないだろうか。
 登紀子も白い小さな花を早川朔の顔のそばに置き、早川朔の肩を撫で、顔を寄せて何かをつぶやいた。なんと言ったかは聞こえなかったが、おつかれさま、と言ったようにも聞こえた。ほどなく棺は閉じられ銀色の扉の前に運ばれる。扉が左右に開き、棺はスムーズにそのなかに進んでいった。鈴子は早川朔の顔が見られたらすぐにでも帰るつもりだったがほかにもそう思っている人が多いのか、皆、帰り支度を始めている。鈴子はもうここまでつきあったのだから、最後までここにいようと決めた。奈帆も鈴子のそばを離れようとしない。
 先ほどの男性に案内され、パーテーションで区切られたテーブル席に鈴子と奈帆は座った。斜め前に登紀子が座る。登紀子も最後までつきあうつもりなのだろう。鈴子はテーブルの上にあったポットで煎茶を入れ、登紀子の前に出した。登紀子と何を話せばいいのか、この前会ったのは登紀子からお願いされて「用立て」したときだ。登紀子のとある噂も耳にしていた。生活保護をもらっている、という噂。
「あの、フリーライターになるにはどうしたらいいんでしょうか?」
 鈴子はぎょっとして奈帆の顔を見た。思いつめたような顔で登紀子に向き合っている。いったいこの孫は何を言い出すのか。奈帆がフリーライターになりたいだなんて、たった今初めて聞いたことだ。出版社に勤めたのに、その仕事に疲れて休職しているんじゃないか。くるくると頭のなかをさまざまな思いが駆け巡った。何か口にしなければと思うのだが思うように言葉が出てこない。
「これからの時代、フリーライターはやめておいたほうがいいんじゃないかしら。できることならきちんとした会社にお勤めして、結婚なさるのがほんとうはいちばん幸せなんじゃない。ねえ」
 少ししゃがれたような登紀子の声は相変わらずだった。
 登紀子は鈴子の顔を見て同意を求めるが、その言葉に頷くこともできない。
「学生さんでいらっしゃるの?」登紀子が奈帆に尋ねる。
「いえ、会社員で今は」奈帆は口ごもる。
「体調を崩して今は休職中なんです」鈴子が言葉を添えた。
「そう。昔も今も、女が働く大変さは、どの世界でも変わらないものね。今のように景気も良くないのなら余計に……」
 ふと鈴子がまわりに目をやると、隣のテーブルに座っていた人も帰ろうとしている。結局最後までいるのは鈴子たちも含めて、七、八人なのではないか。
 お茶を一口のんで登紀子が続ける。
「フリーライターだ、イラストレーターだ、デザイナーだなんて、横文字の職業が輝いていたのはほんの一時期のことですよ。妙子さんはかわいそうだけれど、フリーランスで働く女の最後なんてこんなものです。実際のところ、そのとき働ける人が働く。だけど、その代わりはいくらだっている……」
 登紀子は手にしていた茶碗の縁を人差し指で撫でた。
「あの、そういう、佐竹さんのお話を聞かせていただくわけにはいかないでしょうか。皆さんが働いていた時代のこと、私、知りたいんです。そうじゃないと」
「みんな死んじゃいますからねえ」ふふ、と鈴子の目を見て登紀子は笑った。
 鈴子は不安そうに奈帆を見つめる。葬儀社の社員らしき男性が近づいてくる。
「骨上げの準備が整いましたので、皆さんどうぞ」
 登紀子はバッグの中からメモ帳を取りだし、そこに太い万年筆で何かを書き付けて奈帆に渡した。
「ほんとうに興味があるのならいらっしゃい。あなたが話を聞きたいのなら」
 奈帆は深く頭を下げた。二人一組で骨を骨壺に納める骨上げは、三組ほどが行っただけで、それ以外の骨はすべて斎場のスタッフが拾った。細かい骨はちりとりと小さな箒のようなもので集められ、さらさらと骨壺に納められていく。骨壺の蓋が静かに閉められたとき、これが一世を風靡したイラストレーターの最後か、と胸がつまった。彼女が生きている間に描いた莫大な量のイラストはいったいどうなるのか。それはもう誰かに見られることはないんだろうか。葬式で誰かの死に向き合うたびに鈴子は思う。人は自由に自分の意志で生きているようでいて、ほんとうのところ死に方だって選ぶことができないのだと。普通に行けば、鈴子自身も、登紀子も生が許された時間は短い。けれど、どんな死に方をするか、鈴子にも登紀子にもわからない。それがひどく残酷なことのように思えた。

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 鈴子と奈帆が市ヶ谷に住む登紀子を訪ねたのは、その一週間後だった。
 奈帆は一人で行くと言ったが鈴子は心配だった。登紀子は生活が困窮している。もしやっかいな相談をされたら、奈帆が一人で解決できるとも思えなかった。奈帆が登紀子に渡されたメモと携帯を交互に見ている。登紀子が市ヶ谷に住んでいるのは、鈴子が会社に勤めていたときから知っていた。登紀子と同じ物書きであった登紀子の母がベストセラーを出したとき、東京オリンピックの数年前にあの当時としては珍しい分譲マンションを買ったと聞いたことがある。けれど、それらしき建物は見当たらない。
「ここだと思うんだけど……」奈帆が古ぼけた雑居ビルのような建物を見上げている。ここではないだろう、と鈴子が思っていると、奈帆が一階の扉を開け、中に並ぶ郵便受けを見た。
「あった。ここであってる。ここの三階」
 そう言いながら手招きする。エレベーターがないので階段で三階に上がった。途中で休憩しても息が上がる。ほとんど外に出ない奈帆だって同じようなものだった。肩で息をしている。けれど、今日はこの前の早川朔の葬儀のときのように、電車に乗るのも不安そうな様子はなかった。マスクをしているのは相変わらずだが、奈帆が登紀子の家に行く、と能動的に動いていることが鈴子はうれしかった。
 登紀子の部屋の前に立つ。鈴子と奈帆は顔を見合わせる。白く塗装された鉄製のドアには赤錆が浮き上がっている。奈帆がドアの脇にあるチャイムを鳴らすが、何度鳴らしても反応はない。いないのだろうか、と思った瞬間、内側の鍵を外すような音がした。ドアが開き登紀子が顔を出す。
「ほんとうに来たのね。どうぞ」と言いながら奥に進む。鈴子と奈帆は部屋に入ろうとするが、玄関には紐で結ばれた新聞紙の山で靴を脱げる場所がない。それでもなんとか靴を脱ぎ、脱いだ靴は新聞紙の山の上に置いた。部屋はワンルームらしかった。左右の壁際に天井まで続く本棚。そこには乱雑に本が詰められていたが、あふれ出した本や雑誌が床の上にもうずたかく積まれていた。そして、クリップで留められ、二つ折りにされ、ゴムでまとめられた原稿用紙らしき紙の束。スクラップ帳だろうか、何かの切り抜き記事を貼ったノートが開いたまま、日にさらされ黄ばんでいる。窓際には鉄製のベッドがあるが毛布と掛け布団らしきかたまりの上に、内側にソースのようなものがべったりついたシチュー皿が載っている。
 ぱっと見ただけで三人の女が座る場所はなかった。奈帆も驚いたのか口をぽかんと開けたまま、部屋の入り口で立ち尽くしている。部屋じゅうに大量の埃が溜まっているのだろう。鈴子は立て続けにくしゃみを三回した。テレビでよく見るゴミ屋敷が目の前に広がっている。ここで火事でも起こったら大変なことになるだろう。なぜだか登紀子は買ったときは真っ白だったのだろうと思われるバスローブを服の上に着込んでいる。その下はこの前、早川朔の直葬のときに見た黒いワンピース。もしかしてこの服を汚さないためだろうか。
 鈴子はふと玄関横を見た。小さな流しがついているが、そこには汚れた皿やグラスが積み重なったままだ。話を聞く前にまずは部屋を片付けるのが先決なんじゃないだろうか。驚いて立ち尽くす鈴子と奈帆にはかまわずに、登紀子は部屋の中央の荷物をどけている。といっても雑誌や紙の束を本棚のほうに寄せているだけだ。
「さあ、ここに座って」
 登紀子がベッドの上からクッションを二つつかみ床の上に置く。ゴブラン織りのクッションカバーは所々が剥げ、クッションそのものが座布団のように薄くなっている。最初にそこに座ったのは奈帆だった。迷っていた鈴子も隣に座った。登紀子はベッドに腰掛け、灰皿代わりにしていると思われる皿をベッドの端から引き寄せた。ベッドの脇にある丸い小さなテーブルからハイライトとマッチの箱を手に取る。ハイライトをくわえマッチをった。マッチの炎を吸うかのように、ハイライトを近づけ口をすぼめる。その姿が鈴子には懐かしかった。あの会社のデスクで、原稿用紙に向かっているときも確かに登紀子はこんなふうに煙草を吸っていた。鈴子自身は吸わなかったが、あの頃どこでだって煙草は吸いたい放題だった。登紀子のはき出す煙が狭い部屋の中を漂う。
 そうして登紀子の長い話が始まった。

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続きは本書でお楽しみください。

 『トリニティ』窪美澄/著
2019年3月29日発売 [定価]1700円+税

かつてなく深くまで抉り出した、現代日本を生き抜く女たちの夢と祈り――。昭和・平成から未来へと希望を繋ぐ傑作。

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