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 24:12 新橋-銀座
 桜井奈緒子
(さくらい なおこ)


     は、仁王立ちになって車両の後方を向いている。鼻の頭に床の汚れがそのままついていた。かなり派手な倒れ方だったが、何ごともなかったような無表情で後方に目をやっている。
 照れなのだろうか、とも思ったが、奈緒子は目の前の男から視線を落とした。

 この男のことより、問題は松尾弥生なのだ。
 なにが、弥生に疑惑を持たせたのか?

「…………」
 ふと、視線を感じて左のほうへ目をやった。松尾の向こうからこちらを見ている弥生と目が合った。
 ちょっと首を傾げてみせると、弥生はどこかに訝しげな表情を残したまま、唇をなめた。

「早川さん……あたし、さっきから気になっているんですけど」
「…………」
 弥生のその口調に、どこか厭なものを感じながら奈緒子は彼女を見つめた。
 松尾が間に挟まれて、弥生と奈緒子に視線を往復させた。

「前に、どこかでお会いしてないかしら?」
「……え?」
 思わず、ギクリとした。

 会った? この弥生と?

 そんなわけはない。
 こんな女に会うわけがない。

「どこで、ですか?」
 気持ちを引き締めて訊き返した。
 弥生は小さく首を傾げるようにした。
「ごめんなさい。思い出せないの。勘違いかもしれません」
 奈緒子はゆっくりと微笑んでみせた。
「私には、心当たりがないんですけど」
「そうですね。ごめんなさい。勘違いですね」

 しかし、奈緒子は、弥生の目が依然として訝しそうに自分を見つめているのを感じていた。
 勘違いだと、簡単に引き下がったことが、余計に気にかかる。
 どこかで会った?
 いったい、それは……。

 隣で口を噤んでいる松尾が気になった。
 黙ったまま、松尾は奈緒子を見ていた。奈緒子は、また首を傾げ、そしてかすかに笑ってみせた。松尾は、それに強張ったような笑いで返してきた。

 いや、会っているはずはない。
 奈緒子は、そう自分の胸に確認した。こんな女と、これまで接点を持ったことなど、一度もないのだ。

「あ……」
 と、弥生が声を上げ、思わず奈緒子は彼女に目を返した。弥生が、奈緒子を見つめていた。
「……なんですか?」
「わかったわ」
「…………」
 胸の中を不安がよぎる。
 スーン、と背筋から冷たいものが降りていく。

「写真で拝見したんですよ」
「写真?」
 意外な言葉に、奈緒子は弥生を凝視した。

「写真って……なんですか?」
「前、お客さんに見せられた写真です。ええ、あの写真に写っていた人に、早川さん、そっくりなんです」
「…………」

 写真──。
 それは、いったいなんの写真なのか?
 必死で頭を回転させる。しかし、焦りが思考を妨げた。

「でも」と弥生が言葉を続ける。「そっくりってだけで別人だったのかもしれないわ。確か、聞いた名前は早川美佳さんじゃなかったと思うから」
「…………」
 なにか答えなければと思うのだが、適切な言葉がとっさに思いつかない。

「いえね。変な話で、そのお客さん、この人を知らないかって写真を見せてくれたんですよ。ずっと探してる女性だって」
「…………」
「知りませんって答えたんですけど、けっこうしつこいの。よく見てくれって。それでどこかでお会いしたことがあったみたいに思えてたんだわ。なんでも、虎ノ門だか霞ヶ関だか、あのあたりでその写真の人を見かけたことがあるとかって、それでウチの店でもついでに写真見せたみたいなんですけどね」

 車内アナウンスが何かを言いはじめたが、奈緒子にはそれが耳に入らなかった。

「──よくわかりませんけど、たぶんそれは違う方だと思います」
 それだけを言った。

 自分を捜している男……。
 何人かの男の顔が、奈緒子の脳裏をよぎる。写真は撮られないようにしているつもりだが、どうしてもカメラに収まることはある。
 確かに、松尾の身辺を調べるために、何度かは虎ノ門の周辺を歩いた。

 しかし……。

 目を上げると、弥生の視線が奈緒子を見つめていた。


 
         松尾   弥生 

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