いけない、また爪を噛んでる――。 芽衣は右の親指を目の前にかざした。マニキュアの端がはがれていた。 ちっともいい色じゃない。三越の店員は「このお色がお似合いですよ」 と言ったけれど、ブラウン・シュガーなんて、ようするに黒砂糖じゃない か。 そりゃ、デパートの売り場でつけてみたときは、あたし自身、いい色だ って思った。だけど、あれはあの蛍光燈の下で見たからだ。損したなあ、 こんな色だったなんて。 人の言葉を真に受けすぎるんだ。親切な口調で言われると、ほんとにそ うだって思っちゃう。だからいつだってだまされる。あたしをだますなん て、針に糸を通すよりずっと簡単なんだ、きっと。九九で七の段を覚える より簡単だし、半熟に卵を茹でるよりも簡単なのよ。 なんで、いつもだまされてばっかりいるんだろう。 芽衣は自分の親指から目を上げた。首を回し、ホームのベンチに目をや った。 あの人、どうして乗らないんだろう? ずっとあそこに座ってるつもりなのかな。べつに好みのタイプじゃない し、なんとなく恐い感じの人だけど、どこか気にかかる。なんでだろう? 次の電車ってあったっけ? これ、最終じゃなかったのかな。まあちゃ んは、11時57分発に乗るんだぞってくり返し言ったんだけどな。次の 電車もあるんだろうか? あたし、まあちゃんにもだまされてるのかなあ。 みんな終わったら、ハワイに連れて行ってくれるって、嘘だろうか? 前に約束したエメラルドのリングも、まだ買ってもらってない。ハワイ、 ほんとに連れて行ってくれるのかな。 ふう、と芽衣はため息をついた。そっと、斜め向こうに目をやった。 青いクーラーバッグを膝に載せて、男はキョロキョロと車内を見回して いた。 変なカッコ。床に下ろせばいいのに。邪魔じゃないんだろか。 「渋谷行の電車、まもなく発車いたします。ご乗車になりましてお待ちく ださい」 アナウンスが告げ、同時に、子供連れの母親が向こうのドアから飛び込 んできた。 そんなに慌てなくても、すぐに出るわけじゃないのに。 芽衣は、また首を回してホームを見た。ベンチの男が立ち上がるのが見 えた。目が合ったような気がして、芽衣は慌てて身体を前へ戻した。芽衣 が座っている脇のドアから男は車両に乗り込んできた。 ドアが閉まったとき、芽衣は再び、いけない、と思った。 また、爪、噛んでる……。 |
![]() | ベンチの 男 |
![]() | クーラー バッグの 男 |
![]() | 子供 | ![]() | 母親 |