![]() | 23:57 浅草駅-田原町駅 |
ドアが背後で閉まった瞬間、乗るべきではなかったのだと気がついた。この電車は最終なのだ。それも南千住のアパートとはまったく反対の渋谷行き。次の駅で降りればいずれ浅草行きが来るだろうからそれに乗ればいい――いや、待てよ。 松戸は考え直した。 “フィールド”があれば、わたしの姿は誰にも見えない。電車もただ乗りだ。タクシーだって、目的地についてドアが開いた途端にスイッチを入れれば、運転手は幽霊を乗せたんだとしか思わないだろう。あるいはホテルだって人の家だって、勝手に中に入って眠ることもできる。最終電車だからといって慌てる必要がどこにある? 松戸はそう気づいて初めて、落ち着きを持って周囲を見回すことができた。 彼が乗った車両は最終電車の最後尾車両。乗客は、数えてみるとわずかに八人。 先ほど階段でぶつかりそうになった母親とその子供らしき男の子は目の前に座っている。前の方にはご機嫌らしいサラリーマンやクーラーバッグを大事そうに抱えた男などがいる。 松戸は足音を立てないようにしながら通路の真ん中を往復した。 もちろん誰一人彼の方を見ない。 嬉しくてもう一度、今度はカニのように横歩きをしながら端まで歩いた。手の指はもちろん「チョキ」。 誰も気づかない。松戸は笑いをこらえるのに苦労した。 “フィールド”は、全方向からの光を回折させる一種の重力場発生装置である。光子のみに影響するその重力場は彼の体を宇宙服のように取り囲み、入射するすべての光を直進したのと同じ角度で反対側から送出する。その結果が、フィールド内の物体の透明化――というか不可視化である。 プロトタイプの欠陥に気がついたのは、昨日のことだった。完成したと思ったフィールドのスイッチを入れた途端、目の前が真っ暗になったのだ。 すべての光が彼を迂回している以上、何も見えなくなるのは当然のことだった。これはどうやっても回避できない欠陥だ。場合によってはこのままで役立つこともあるだろうが、今は困る。仕方なく彼はプログラムを組み替え、瞳孔にあたる部分のフィールドにピンホールを開けてやることにした。鏡を見て確認したところでは、注意深い人間なら気づくかもしれないが、蠅か何かが飛んでいるようにしか見えないと分かった。これなら大丈夫。それも正面から見られた場合だけであって、危険を感じたら横を向けばいいのだ。 それよりも、音を立てないようにすることや、人とぶつからないようにすることの方が遙かに神経を使う。電車も、この程度の乗客ならいいが、揺れる中、立っている人々の間をすり抜けるのは容易ではないだろう。視界が狭いので余計に気を使わねばならない。 浅草周辺でも、酔っぱらいの振り回した鞄に殴り倒されたり、自転車に追突されたりもした。幸い、彼らはそこに何もないと気がつくと、皆一瞬きょとんとした顔をするものの、大騒ぎをするわけではなくただ首をひねりながら立ち去るだけだった。 しかし複数の人間に同時に接触したらどうなるか。くれぐれも気をつけなくては。
「まもなく田原町、田原町です」
アナウンスの声で我に返った。降りて浅草へ戻るべきだろうか? それともこのままテストを続けようか? |
![]() | 母親 | ![]() | 男の子 | ![]() | ご機嫌らしい サラリーマン |
![]() | クーラーバッグを 大事そうに抱えた男 |