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 23:57 田原町駅
 日下部敏郎
(くさかべ としろう)


     日下部敏郎は、もう一つ奇妙なことに気づいた。
 
 なぜ、私は、こんな状況の中で平静にしていられるのだろう?
 むろん、わからないことだらけだ。自分の立っている場所もわからなければ、これからどこへ行けばよいのかもわからない。なにもわからなくて、途方に暮れてはいるものの、焦りの気持ちはどこにもない。
 我ながら矛盾しているとも思うが、この奇妙な状況を、どうやら楽しんでいるような気持ちでもある。なぜ、これほど、私は落ち着いているのか?
 
 そもそも、日下部敏郎は人生に絶望を感じて、あの鎌倉の山に登ったのだ。浜子とともに眺めた海を、もう一度だけ見たいと願って、思い出の崖の上へ行った。だから、心の中は悲しみでいっぱいだったはずだ。
 ところが、その悲しみなど、いったいぜんたい、どこへ消え去ってしまったのか?
 
「不思議だなあ」と、日下部敏郎は声に出して言った。
 そのとき、どこからか、奇妙な男の声が聞こえてきた。
 
「1番線に参ります電車、渋谷行です」
 
 驚いて、日下部は自分の周囲を見回した。
 どこか、天から降ってきたような声だった。
 この細長く薄暗い通路にいるのは、日下部敏郎以外には、あの男女だけだった。は、先ほどまでなにやら口喧嘩をしていたようだったが、今は二人とも仏頂面をして突っ立っている。彼らのどちらかが言ったようには思えなかった。声は、まるでこの通路全体を揺るがすように響いて聞こえたのだ。
 
 日下部は、ふと思い立ち、その二人のほうへ近づいた。
 男の向こうに立っている女が、一瞬日下部のほうへ目を向けたように思った。だから、日下部は、女に軽く会釈をした。
 ところが、女は、まるで日下部を無視したように、その目を黒く口を開けた洞穴のほうへ向けた。
 
「失礼ですが……」
 
 日下部が男と女に話しかけたとき、男のほうがいきなり、女に言った。
「教室で会ったんだと思うね」
 その言葉は、女にとっても唐突だったとみえて、女は「なに?」と男に問い返した。
 
 男も、女も、日下部敏郎のことを、まるで無視していた。
 いささか心外だった。
 
 もう一度、二人に声をかけようとしたとき、通路の向こうに人影が見えた。日下部は、そちらへ目を向けた。
 日下部は、ギクリ、として背筋を伸ばした。
 向こうに現われた女性が、あまりに浜子に似ていたからだ。
 しかし、その女は浜子ではなかった。彼女は、浜子よりも背が高く、上品さを欠いていた。ミルクホールで働いているか、あるいはもっといかがわしい店にいる女のように見えた。服装が派手だった。
 見ていると、女は、キョロキョロと辺りを見回しながら、日下部たちのいるほうへ近づいてきた。
 
「すいません。終電、まだですか?」
 
 派手な女が、口喧嘩を続けている男女に問いかけた。
 しかし、二人は彼女には目もくれず、口喧嘩を続けている。
 
 そして彼女は、日下部に目をとめた。日下部は、彼女に会釈をした。
 派手な服装の女ではあったが、なにより彼女は浜子に似ていたからだ。

 
    男    女   浜子に
似た女

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