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日下部敏郎は、もう一つ奇妙なことに気づいた。
なぜ、私は、こんな状況の中で平静にしていられるのだろう?
むろん、わからないことだらけだ。自分の立っている場所もわからなけ
れば、これからどこへ行けばよいのかもわからない。なにもわからなくて、
途方に暮れてはいるものの、焦りの気持ちはどこにもない。
我ながら矛盾しているとも思うが、この奇妙な状況を、どうやら楽しん
でいるような気持ちでもある。なぜ、これほど、私は落ち着いているのか
?
そもそも、日下部敏郎は人生に絶望を感じて、あの鎌倉の山に登ったの
だ。浜子とともに眺めた海を、もう一度だけ見たいと願って、思い出の崖
の上へ行った。だから、心の中は悲しみでいっぱいだったはずだ。
ところが、その悲しみなど、いったいぜんたい、どこへ消え去ってしま
ったのか?
「不思議だなあ」と、日下部敏郎は声に出して言った。
そのとき、どこからか、奇妙な男の声が聞こえてきた。
「1番線に参ります電車、渋谷行です」
驚いて、日下部は自分の周囲を見回した。
どこか、天から降ってきたような声だった。
この細長く薄暗い通路にいるのは、日下部敏郎以外には、あの男女だけ
だった。男と女は、先ほどまでなにやら口喧嘩をしていたようだった
が、今は二人とも仏頂面をして突っ立っている。彼らのどちらかが言った
ようには思えなかった。声は、まるでこの通路全体を揺るがすように響い
て聞こえたのだ。
日下部は、ふと思い立ち、その二人のほうへ近づいた。
男の向こうに立っている女が、一瞬日下部のほうへ目を向けたように思
った。だから、日下部は、女に軽く会釈をした。
ところが、女は、まるで日下部を無視したように、その目を黒く口を開
けた洞穴のほうへ向けた。
「失礼ですが……」
日下部が男と女に話しかけたとき、男のほうがいきなり、女に言った。
「教室で会ったんだと思うね」
その言葉は、女にとっても唐突だったとみえて、女は「なに?」と男に
問い返した。
男も、女も、日下部敏郎のことを、まるで無視していた。
いささか心外だった。
もう一度、二人に声をかけようとしたとき、通路の向こうに人影が見え
た。日下部は、そちらへ目を向けた。
日下部は、ギクリ、として背筋を伸ばした。
向こうに現われた女性が、あまりに浜子に似ていたからだ。
しかし、その女は浜子ではなかった。彼女は、浜子よりも背が高く、上
品さを欠いていた。ミルクホールで働いているか、あるいはもっといかが
わしい店にいる女のように見えた。服装が派手だった。
見ていると、女は、キョロキョロと辺りを見回しながら、日下部たちの
いるほうへ近づいてきた。
「すいません。終電、まだですか?」
派手な女が、口喧嘩を続けている男女に問いかけた。
しかし、二人は彼女には目もくれず、口喧嘩を続けている。
そして彼女は、日下部に目をとめた。日下部は、彼女に会釈をした。
派手な服装の女ではあったが、なにより彼女は浜子に似ていたからだ。
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