前の時刻

  

 24:01 稲荷町-上野駅
 沢井 清
(さわい きよし)


     もしこれが……と、沢井は思った。
 もし、丸山知子自身から、彼女の悩みを打ち明けられたのだとしたら、こんな腹立たしさを感じることはなかった。むろん、僕ができることなどタカがしれている。でも、力になってあげられることだってあるんじゃなかろうか。

 力になりたい、と沢井は思った。

 しかし、この延原のバカが「いい手がある」などと言ったばかりに、なにもかもが薄汚くなってしまったのだ。
 本気で力になりたいと思って彼女に話しかけても、きっとどこからか延原の「いい手がある」という声が聞こえてきてしまうに違いない。
 くそお……この野郎。

 よし、と沢井は下腹に力を入れた。

 この馬鹿野郎に天誅を下してやる。
 選ぶべき手段は二つに一つ。吉岡さんに電話を掛けるか、あるいは課長に話をするかだ。

 むろん、常識的に考えれば、課長に話すのがスジというものだろう。客に――それも自分の担当外の客に、社内の不正を話してしまうなどというのは、あまりほめられた行為ではない。
 しかし、課長への進言は、事態を妙な方向へねじ曲げてしまうおそれもある。課長もまた、自分の身がかわいいだろう。延原の不正を知って、課長がまず考えるのは、部下の監督不行届ということだ。それでなくとも、あの課長は上からの受けがあまりよくない。適切な処置をしてくれればいいが、そうではなくヘタに自己保身などに走られてしまったら、延原への天誅が薄められてしまうおそれもある。

 そう、やはり、吉岡さんに直に話をするべきだろう。吉岡さんは、けっこうあれで苦労人だと聞いたことがある。直接話をすることについて、社内での僕の立場を説明すれば、僕からの告げ口だということは伏せてくれるだろう。なにより、吉岡さんの被害を救うために話をしてあげるのだから。

「行ってやれよ」

 延原が、沢井の肩を叩いて言った。
「行く……?」
「蒲田のクラブだよ。丸山知子に、いや、ミカちゃんに会ってさ――オレから聞いてきたなんて、言うんじゃないぞ。偶然だって顔してさ、びっくりした顔してさ、そしたらあの子、会社に黙っててくれって言うだろうから。あとは、お前次第だよ」

 言いながら、延原は、ニヤリと笑ってみせた。
 この野郎……と、沢井が見返したとき、延原は「おっと」と顔を上げて腰を浮かせた。
 見ると、電車が上野に着いていた。

「乗り換えだ、乗り換え」

 そう言って、延原はシートの脇に置いた上着をひっつかみ、車両中央のドアへ歩いた。
「…………」
 沢井も席を立った。ブリーフケースの持ち手を握りしめながら、こいつで延原の後頭部をぶん殴ってやったら、どんなに気持ちがいいだろうと考えた。

 電車が停まり、ドアが開くと、延原は多少ふらついた足取りでホームへ降りた。沢井もそれに続いて電車を降りる。

「な、沢井君」と、ホームの前方へ足を向けながら延原が言った。「行ってみなよ。クラブ」

 いや……と、沢井はホームの中央で向かい合って立っている中年のカップルの脇をすり抜けた。に「なによ」と甘ったるい声で言っていた。
 いや僕は行かない、と言おうとして、ふと、沢井はその言葉を呑み込んだ。

 行くのもいいかもしれない……と、沢井は思った。
 もちろん、それが延原の言う「いい手」だからではない。丸山知子にしたって、いきなり家庭の事情など打ち明けはしないだろう。それなら、彼女にとっては多少ショックかもしれないが、打ち明けやすい状況を作ってあげるのもいいかもしれない。

 オーケイ。
 明日、吉岡さんに電話をかけよう。
 そして、蒲田に行ってみる。

「延原さん」と、沢井は声を掛けた。「そのクラブって、蒲田のどこにあるんですか?」

 延原が、ニヤッと笑いながら、沢井を振り返った。


 
    延原の
バカ
 女   男 

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