ばかな――。
日下部は、自分の胸に手を置いた。
心臓の位置を探る。
「…………」
しかし、そこにも動悸はない。
なんということか……。
日下部は、もう一方の手も胸に押し当てた。
私には――私には、鼓動がない。心臓が、停止している。
それは、つまり……。
目を上げると、浜子に生き写しの女が日下部を見ていた。
日下部は、言葉もなく、彼女に首を振った。
女は、すう、と息を胸に吸い込んだ。いや、吸い込むような仕草をした。
そして、なんとも悲しげな色が、その美しい眼に現われた。
私の……、と日下部は女に告げた。
「私には、脈がありません」
「脈?」
彼女は問い返し、日下部はうなずき返した。
慌てたように、女は、自分の手首を押さえた。
その大きな眼が、いっそう見開かれた。
「どうして?」と、彼女は日下部に頼むような視線を向けてきた。「あたしも……ない」
「あなたも?」
言うと、彼女は、うなずきながら右手を差し出した。
「…………」
細く、白く、美しい手だった。
触れれば、その瞬間に毀れてしまうかと思えるような、硝子細工のような手首だ。
その手首に、日下部は、おそるおそる指をのばした。
ああ……と、日下部は一瞬眼を閉じた。
胸が熱くなった。歯を食いしばるようにして、日下部は彼女に顔を上げた。
「どうして?」
日下部は、答えられなかった。答えられぬまま、ただ首を振った。
私はいい。私は、どうせすべてを棄てようと決意した人間だ。私はいい。
しかし、この人は――このように美しい人が……。
突然、彼女が、日下部の手首を握ってきた。びっくりするほど、握力を感じさせるつかみ方だった。
彼女は、日下部の手首を調べ、そして再び、顔を上げた。
「まって、これ、どういうこと?」
いや……と、日下部は言葉を濁した。
「私にも、まったく判断がつきませんが、もしや……その」
「もしや? もしや、なによ?」
半ば、怒ったような口調で、彼女は問い返してきた。
「……いや」
なんと言えばよいのか、日下部にはわからなかった。
彼女の目の前で、婦人が立ち上がった。同時に、婦人に手を引かれた男の子が、ひょん、と長椅子から床へ飛び降りた。
あ……と、女が声を上げた。男の子が、彼女の身体を貫通するようにすり抜けたからだ。
「い、今の……今の、見た?」
日下部は、ゆっくりとうなずいた。
「はい」
鉄道が駅に停止し、奇妙な音とともに引き戸がひとりでに開く。
日下部は、そちらへ眼をやった。
あの奇妙な風体の男が、母と子を押しのけるようにして箱から降りていった。それに続くようにして母子も降りる。
彼らの降りるのを待っていた二人の男が、戸口より乗り込んできた。
一人は、箱に乗ると、そのまま反対側の引き戸の前へ進んだ。もう一人が、日下部たちのいるほうへやってくる。
よし、と心を決め、日下部は思い切ってその男の目の前を塞ぐようにして立ちはだかった。
「…………」
男は妨害に動ずることもなく、日下部の肉体をやすやすと通過して後ろの座席へ腰をおろした。
日下部は、女を振り返った。
「どうやら、我々は、死者のようです」
言うと、女が眼を見開いた。
「死者?」
はい、と日下部は静かにうなずいた。
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