どうして?
ひとみは、大きく深呼吸をした。
あれ……と、奇妙な感覚にとらわれた。なにかへんだ。
もう一度、思い切り息を吸い込んでみる。
「…………」
思わず、ひとみは日下部に目をやった。日下部は、両手を自分の胸に押し当てていた。手を胸に当てたまま、当惑したような表情で、ひとみを見返した。ゆっくりと、彼は首を振った。
また、ひとみは息を吸い込んでみた。
感じない……。
深呼吸をしても、ひとみの鼻腔はなにも感じなかった。
息を吸えば、風が鼻腔をくすぐる。普段は意識しないが、鼻先に神経を集中すれば、当然、吸い込まれる空気の存在が感じられるはずだ。
なのに、ひとみの鼻は、なにも感じていない。
どういうことなんだろう?
「私の……」
と、日下部が言った。
え? と、ひとみは自分の鼻をこすり上げながら、日下部に訊き返した。
「私には、脈がありません」
「ミャク?」
日下部が、うなずいた。
反射的に、ひとみは、自分の手首をつかんだ。
「…………」
脈が、ない。
ひとみの指先にも、いつものあのトクトクという脈の響きは伝わってこない。
「どうして? あたしも……ない」
「あなたも?」
ひとみは、うなずいた。うなずきながら、自分の右手を日下部のほうへ差し出した。
「…………」
おそれるように、日下部がひとみの手首に触れた。そして、動脈の位置を指先で探りはじめた。
日下部は、ひとみの手首に指先を添えたまま、顔を上げた。
「どうして?」
訊くと、日下部は首を振った。
ひとみは、日下部の手首を逆に握り返した。親指の付け根、骨のすぐ脇のところ……。
日下部の手首にも、脈は存在していなかった。
「まって、これ、どういうこと?」
「いや……私にも、まったく判断がつきませんが、もしや……その」
「もしや? もしや、なによ?」
「いや」
と、日下部は眉を寄せた。
そのとき、ひとみの前で母親が立ち上がった。男の子がシートから、ポン、と飛び降りた。
「あ……」
ひとみは、思わず声を上げた。
避ける間もなかった。
男の子が、ひとみの身体の真ん中を、スルリと通過したのだ。
「い、今の……」と、ひとみは、日下部を振り返った。「今の、見た?」
「はい」
日下部が、うなずいた。
電車が停止した。チャイムの音とともにドアが開く。
親子連れの降りたドアから、男が二人乗り込んできた。一人は会社員のように見えた。仕事疲れが、表情にそのまま表われている。しかし、彼はシートには座ろうともせず、がら空きの車両にも関わらず向かい側のドアのところへ歩いて行った。
もう一人の乗客は、ずっと若い。イヤホンを両方の耳にさし、何か歌うようにつぶやきながらドアをくぐってくる。
なにを思ったのか、日下部がそのイヤホン男の前に立ちふさがった。
「…………」
男は、日下部に驚きもせず、そのまま彼の身体をすり抜けて先ほどまで親子が座っていたシートへ腰をおろした。一瞬、男の身体が日下部の身体に没し、そして、そこから抜け出したように見えた。
日下部が、ひとみを振り返った。
「どうやら」と、日下部は首を振りながら言った。「我々は、死者のようです」
「死者?」
思わず、ひとみは声を上げた。
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