![]() | 24:06 末広町-神田駅-三越前 |
ああ、そうか……。 石垣は、婦人を見つめながらうなずいた。考え事でもしているのか、婦人はさかんにこめかみのあたりに手をやっている。 ようやく思い出した。あの人とは、書店で会ったのだ。いや、会ったというより、見かけたと言ったほうがいい。 あれはたしか、ひと月ほど前、池袋の大きな書店に立ち寄ったときだ。3階のフロアの奥に行列ができていた。20人ほどもいただろうか。客たちは手に手に本を持ち、自分の順番が回ってくるのを待っていた。 そう、その行列の一番前――大きな机の向こうで、ニコニコと差し出される本にサインをしていた女性。 間違いない。あの人だ。 行列の脇には、大きく名前を書いた札が立ててあったはずだが、さて……なんという名前だっただろう? 覚えていなかった。 小説など、ほとんど読まない。 だから、小説家にも興味はない。たとえ好きな小説があったとしても、その本の著者からサインなどもらいたいと思うこともない。 だから、行列に、なんだ? と思って覗いては見たが、そのまま通り過ぎただけだった。 そうか、あの書店で見かけた人だったのだ。 「まもなく神田、神田です。JR線はお乗り換えです。なお、ただいまの時間、後ろの階段、閉鎖中ですからご注意を願います。お出口は右側に変わります。神田でございます」 アナウンスに、婦人が伏せていた顔を上げた。しかし、そのまま、また手帳に目を落とした。 どこにでもいる普通のおばさんだった。書店で見たときは、なんとなく近寄りがたい人のように目に映ったが、こうして地下鉄のシートに腰を下ろしているところを見ると、なんということはない。 まあ、それがあたり前だろうと、石垣はうなずいた。 目の前のシートから茶髪の少年が立ち上がった。耳に差し込んだヘッドホンステレオのリズムに身体を揺らせながら、隣に座っていた汚い風体の男を見返した。その男も座席から腰を上げる。 二人は、身体をゆすりながら、石垣の立っている脇のドアへ歩いてきた。 「ダッダ、ダダダダー!」 茶髪が歌うように言い、男のほうも「ダッダ、ダダダ」と言い返した。 「…………」 なんだか奇妙な二人だった。茶髪のほうはイヤホンから流れる音楽に身体を合わせているようだが、もう一人の男はイヤホンも何もつけていない。なのに、二人はそろってクネクネと身体を動かし続けている。茶髪は笑っていたが、男のほうは無表情だった。茶髪は、ドアのガラスを叩きながら、さかんに声を上げ、笑う。 石垣は、ほんの少し顔をしかめながら身体をひいた。 電車が神田に着き、ドアが開くと、茶髪の少年は飛び上がるようにしてホームへ降りた。男もそれに続く。二人は、並んで歩きながら身体を揺らせ続けていた。 勤め人風の男が、やはりその二人に目を向けながら乗り込んできた。 気がついて車内を見渡すと、先ほどよりかなり乗客が増えている。 前のほうには、学生風の若い男たちが乗り込み、何人かが座席に着き、何人かは通路に立っていた。 先ほどまで茶髪たちが座っていた場所には、若い女の子が3人並んで腰を下ろした。彼女たちもやはり学生に見えた。 ドアが閉まり、電車が動き始める。 何を考えているのだろうか。 石垣は、乗客たちを眺めながら思った。 それぞれの生活がある。誰もが、何かを背負って生きている。たまたまこの車両に乗り合わせた人たち。 いったい、何を考えているのだろうか。 目を戻すと、女流作家は、あいかわらず手帳を見つめていた。 |
![]() | 婦人 | ![]() | 茶髪の 少年 |
![]() | 汚い風 体の男 |
![]() | 勤め人 風の男 |