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 24:09 新橋駅
 根本陽広
(ねもと あきひろ)


    「根本君の言う通りよ。あの奥さん、あやしいよね」
 薫ちゃんがそう言って、根本は、へ? と考えた。
 オレ、なに言ったっけ?

「そう思う」万里子が薫に答えた。「話してるとき、あの奥さん、ずっとハンカチを手に持ってて、何度も眼にあてたりしてたけど、涙なんて、一滴も出てなかった」
「泣いているように見せてた?」
 小早川は、万里子の言葉を翻訳するように訊き返した。
 嘘泣きだって言ってるわけですよ、万里子は。それ以外にどう聞こえるっていうの?
 でも、万里子は、元気にうなずいた。
「だと思うんだ。なんか、クサい演技してるみたいに見えた」

 思わず、またあくびが出た。
 社に戻ったら、オレ、まず仮眠室に行かせてもらおうっと。3時間、いや、1時間でもいいからさ。眠らせてもらいたいわけよ。
 今は、ほら、真夜中なんだよね。普通の人って、もうお寝みになる時間でしょ。で、普通の人の場合、7時間とか8時間とか、寝ちゃうわけだよね。普通の人は、さ。
 そこまで贅沢は言いません。3時間でも、1時間でもいいんです、僕の場合。なんて控えめなんでしょ。
 眠いのよ、オレ。

「ただ」と、小早川は元気に先を続ける。「暴漢の乗っていたという赤いクルマについては、ケーキ屋のオヤジも喫茶店のウエイトレスも見てるわけだよな」
「うん」薫ちゃんも元気にうなずいている。「その赤いクルマの脇から、小柄な男が走り込んできたって言ったんだから」

 で? と言うように、小早川は根本に視線を送ってきた。
 はいはい、と根本は小早川にうなずいた。

「ケーキ屋のほうも赤いクルマは見てるよ。停まって、またすぐに走り出したってことはオヤジも言ってた」
「そのオヤジは、ウエイトレスの言う小柄な男っていうのを見てはいないのか?」
「見てない。と言うか、オヤジのいたところからじゃ、死角に入ってて見えない」

 小早川の言いたいことはなんとなくわかるけれど、でもそれ、移動中も惜しんで話し合わなきゃいけないようなことなんですか? みんな、ちょっとひと眠りしてから、考えることにしません?
 あせったって事件の真相は逃げないんだからさ。

「ウエイトレスが、嘘を言う必然性なんてないでしょう?」
 薫ちゃんは、小早川の言ったことが心外だというように口を尖らせて言った。それに、万里子がうなずく。
「奥さんのほうはあるよね」

 しかし、小早川は、あくまでも理性派のイメージを固持したいらしい。
「奥さんが嘘をついていると?」
「違う?」
 万里子が、挑戦的な口調で言い返す。
「今の段階では、嘘ときめつけるわけにもいかないだろ」
「でも、嘘っぽいじゃん」
 とっても、納得できる言葉で、薫ちゃんはそう言った。
 拍手を送りたいと、根本は思った。

 そう、嘘っぽい。
 いい見解ですよ、それ。

「じゃあ、嘘だとするよな」小早川は、なおも食い下がる。「ほんとは小柄な男が旦那を刺したのに、嘘をついて赤いクルマの男が刺したと言った」
「うん」
「だとするとだな、赤いクルマの男は、いったいなにをしてたんだ?」

 薫ちゃんが、沈黙した。
 小早川の演出通りという感じで、根本は吹き出しそうになった。

「なにって?」
 万里子が訊き返す。

 小早川は、演出効果を高めるために、ひと呼吸の間を置いた。
 はい、スポットライトでも当てましょうか。

「車を停めて、ドアを開けて降りた。しかし、すぐにまた乗り込んで走り去った。妙じゃないか? 赤いクルマの男は、なんの用があって車を停めた? どうしてすぐに走り去った?」

 言いたいことはわかるけど、そんなに大仰に演出するような疑問なの、それ?
 根本は、また出そうになるあくびをこらえながら首を振った。

「説明なら、つくじゃないか。そこで起こった殺人にびっくりして逃げ去ったんだよ。関わり合いになりたくなくてさ」
 眠いんですよ。オレ。


 
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