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 24:10 新橋駅
 小早川純
(こばやかわ じゅん)


     なるほど、それは面白い。

 ただ、と小早川は思う。
 関わり合いになりたくなくて逃げた、というだけじゃ面白くない。逃げたのだとすれば、その赤いクルマの男は事件を間近に目撃したことになるのだ。
 最重要な目撃者じゃないか。

 小早川は、根本のほうへ顎をしゃくった。
「その推理の根拠は?」
 思った通り、根本は苦笑して首を振った。
「根拠? そんなもんないよ。普通そうだろ? 目の前で、いきなり暴力沙汰が起こったときに、普通の人間はそこから逃げるよ。ただそれだけの話」
「逃げる、逃げる」
 が、まるで子供みたいに同調した。

 まったく困った子だなあ。
 物事を周囲から見るってことができないもんかね。

「いや、そうとも言えんのじゃないかな」一応、ディベートとしては、あくまでも反対の立場をとるべきだろう。「突発的に目前で殺傷沙汰が起こった場合、ある人間は、その争いを停めようとする。別の人間は、周囲の人間に危険を報せる。またある人間は、警察に報せようとする。もちろん、逃げ出す人間もいるだろう――」
「だから、その人は逃げ出したのよ」
 万里子が短気を起こして口を挟み、薫は「そうそう」と満足そうにうなずいた。

 小早川は、三人を諫めるつもりでゆっくりと首を振って見せた。
「いや、まだすべての場合を挙げてない。思うに、そういう場合、一番多いのは、なにもせずにその場に立って見ているというんじゃないかな」
 ポカンとした表情で、万里子と薫が小早川を見返した。

「立って見てる? 目の前で殺人が起こってて?」
 豆鉄砲を食らった鳩のような表情で、薫が言った。
「うん。いいか? その赤い車の男が事件と無関係なら、そこで起こった殺人事件は予期しなかった突発的な事態だろう?」
「そうよ……それが?」
 理解不能であるらしく、薫が訊き返す。

「普通、信じられるか? この世界一安全だと言われてる日本で、目の前で殺人が起こって、それが現実のことだとすぐに信じられるか?」
「え……だって」
「大半の人間は、目の前で起こったことが信じられず、とっさの判断もつかず、身体が硬直してその場に呆然と立ちつくしてしまうというのが普通なんじゃないかな?」

 お嬢さん方の言葉が消えた。
 ようするに、物事を考えるときは多面的にというのが鉄則なのだよ。
 もちろん無意味な行動はある。人は誰でも無意味な行動をとる場合がある。赤いクルマの男のとった行動も、さほどの意味はなかったかもしれない。
 だが、それが意味のある行動だったら……と考えてみることは決して無駄ではないのだ。

「普通かなあ……」万里子が、不満そうな声を出した。「あたしは逃げ出すのが普通だと思うな。危険回避行動? 心理学用語はよく知らないけど、とにかく自分の安全を守るっていうのは本能だし、目の前でとんでもないことが起こったら、だいたいみんな逃げ出すよ」
 そこに薫が、またまた同調する。
「逃げる。絶対、そうよね。逃げる」

 なんで、こいつらは、なにもかも決めつけてかかろうとするんだ? どうして、そんなに眼をひっつけて物事を見てしまうんだ?
 離れなさいよ。物事は、離れたところからご覧なさいよ。

「いや、あのさあ」根本が大きなあくびをしながら言う。「呆然と突っ立ってるヤツもいるだろうし、泣き出すヤツもいるだろうし、もしかしたら笑い出しちゃうのだっているかもしんないけど、そういうことじゃないわけでしょ」
 小早川は、ふむ、とうなずきながら根本を見返した。

「どういうことだ?」
「現実は、真っ赤な車の野郎は、そのままそこを立ち去ったってことですよ。どんな反応をするヤツが何パーセントかってのは、それこそ心理学者に任せとけばいい。そいつは、そこから車で走り去ったわけ。喧嘩を止めに入ったんじゃないし、警察に報せもしなかったし、ぼーっと突っ立ってたんでもなかった。とにかく、ヤツは走り去ったわけなのよ。だから、根拠なんてないけど、たぶんビックリして逃げたんだろうってこと。そんだけ」
「…………」

 根本まで――。
「そんだけ」でいいのか?
 時間がないから、普通なら一人で充分の取材を手分けして回った。その材料の突き合わせが「そんだけ」でいいのか? せっかく、4人の違った頭が集まってるんだぞ。それが「そんだけ」なのか?

「現実が物語る真実!」
 なにを勘違いしたのか、薫が宣言するように言った。


 
     根本      万里子 

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