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 24:10 新橋駅
 根本陽広
(ねもと あきひろ)


     小早川が、すました顔で根本を見つめた。

 お前さんだってわかってることじゃないかよ、と根本はうんざりしながら小早川を見返す。
 しかし、当の小早川先生はあくまでも論理ごっこを続けたいらしい。こっちの体調など、お構いなしだ。

「その推理の根拠は?」
「コンキョ?」根本はやれやれと思いながら、苦笑した。「そんなもんないよ。普通そうだろ? 目の前で、いきなり暴力沙汰が起こったときに、普通の人間はそこから逃げるよ。ただそれだけの話」
「逃げる、逃げる」
 薫ちゃんが、元気いっぱいに大きくうなずきながら賛同した。

「いや」小早川の旦那はなおも食い下がる。「そうとも言えんのじゃないかな。突発的に目前で殺傷沙汰が起こった場合、ある人間は、その争いを停めようとする。別の人間は、周囲の人間に危険を報せる。またある人間は、警察に報せようとする。もちろん、逃げ出す人間もいるだろう――」
「だから、その人は逃げ出したのよ」
 万里子が、多少いらついたような声で言った。それに薫ちゃんも「そうそう」とうなずく。

 小早川は、口の端に重りでもぶら下げたような顔をゆっくりと横に振った。

「いや、まだすべての場合を挙げてない。思うに、そういう場合、一番多いのは、なにもせずにその場に立って見ているというんじゃないかな」
 薫ちゃんが丸い眼をさらにまん丸にして小早川を見た。
「立って見てる? 目の前で殺人が起こってて?」

 おやあ、なかなか可愛いじゃん、薫ちゃんって。
 根本は、その発見に、得をしたような気分になった。
 眠いからそう見えるだけかな? いやいや、けっこう可愛いよ。

「うん。いいか?」と、小早川は、まるで小学校1年生を諭すような口調で、薫ちゃんに言う。「その赤い車の男が事件と無関係なら、そこで起こった殺人事件は予期しなかった突発的な事態だろう?」
「そうよ……それが?」
 やや口を尖らせて、薫ちゃんが訊き返す。
 うん、そのちょっとふくれたほっぺたも可愛らしい。

「普通、信じられるか? この世界一安全だと言われてる日本で、目の前で殺人が起こって、それが現実のことだとすぐに信じられるか?」
「え……だって」
「大半の人間は、目の前で起こったことが信じられず、とっさの判断もつかず、身体が硬直してその場に呆然と立ちつくしてしまうというのが普通なんじゃないかな?」

 薫ちゃんは、丸い眼をパチパチと瞬いた。
「普通かなあ……」万里子が首を傾げた。「あたしは逃げ出すのが普通だと思うな。危険回避行動? 心理学用語はよく知らないけど、とにかく自分の安全を守るっていうのは本能だし、目の前でとんでもないことが起こったら、だいたいみんな逃げ出すよ」
「逃げる」薫ちゃんは、また大きくうなずく。「絶対、そうよね。逃げる」

 根本は、薫ちゃんから小早川に視線を移した。
 とにかく、眠い。

「いや、あのさあ……」
 あくびをしながら言うと、小早川の旦那は根本のほうへ目を向けてきた。
「呆然と突っ立ってるヤツもいるだろうし、泣き出すヤツもいるだろうし、もしかしたら笑い出しちゃうのだっているかもしんないけど、そういうことじゃないわけでしょ」
 ほう、と小早川が腕組みをしながら小首を傾げる。
「どういうことだ?」

 まったく、わざとらしいっていうのよ、そういう仕種が。
 もう、名探偵気取りなんだから、このオヤジは。
 ふう、と根本は溜息をついた。

「現実は、真っ赤な車の野郎は、そのままそこを立ち去ったってことですよ。どんな反応をするヤツが何パーセントかってのは、それこそ心理学者に任せとけばいい。そいつは、そこから車で走り去ったわけ。喧嘩を止めに入ったんじゃないし、警察に報せもしなかったし、ぼーっと突っ立ってたんでもなかった。とにかく、ヤツは走り去ったわけなのよ。だから、根拠なんてないけど、たぶんビックリして逃げたんだろうってこと。そんだけ」
 薫ちゃんが、またまた大きくうなずいた。
 元気だね、ほんと、この子。

「現実が物語る真実!」

 可愛いんだから。ナデナデしてあげようかしら、まったくもって、この。


 
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