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 24:10 虎ノ門-新橋
 桜井奈緒子
(さくらい なおこ)


     もちろん、行動を起こすことはできる。
 たとえば、席を立ち、松尾に黙礼して、そのまま隣の車両へ移るのだ。たぶん、松尾は、あわてて追いかけてくるだろう。松尾の反応は、ほぼ予測できる。

 しかし、予測が難しいのは、鳥塚弥生の行動だった。
 彼女は、その後どうするだろう? そのまま黙って松尾を見送るか。あるいは違う行動をとるのか?
 単なる興味本位で松尾に声をかけてきたのだろうと思ったが、そうではなく、違う理由があったとしたら……。

 さっき、この電車に乗り込むとき、弥生はさっさと先にシートに着いた。松尾が座る場所は、彼自身の意志に任せた。
 しかし、それはある種の自信だったと考えることもできる。奈緒子にも松尾の行動の予測がつくように、弥生も彼が自分の隣に座るだろうという確信があったのかもしれないのだ。

 鳥塚弥生――。

 半年以上をかけて松尾の身辺調査をしたが、この女の存在はまったく現われなかった。弥生どころか、彼の周囲には、どんな女の存在もなかったはずなのだ。
 だが、松尾は、あきらかに弥生に対して特別のものを持っている。それは、なんなのか?

 席を立ち、隣の車両に移った後、弥生の出方次第では、松尾の行動が変わってしまうおそれもある。
 それが、どう変わるのか……その判断がつかない。

 わかっているのは、今、松尾が半ばパニックに陥っているということだった。
 彼にとっても、弥生の出現は予想外だったのだ。彼女の存在が、今の松尾をパニックにさせている。
 二人の関係を、把握すべきかもしれない。でないと、思わぬ失敗を招くことになる可能性も否定できないのだ。

 その時、弥生が松尾になにかささやきかけた。電車の騒音に遮られて、彼女の言葉を聞き逃した。
 しかし、聞き取れなかったのは松尾も同様だったようで、彼は「え?」と弥生に訊き返した。
「うまくやったじゃない? 彼女美人だし。どうやって知り合ったの?」
 今度は、聞き取れた。

 松尾のほうは、困った様子で笑いでごまかしながら頭をかいている。
「いや……その、偶然っていうか」
 弥生と一瞬目が合い、奈緒子は努めて表情を消しながら彼女の視線を受けた。
「偶然? どんな?」
 からかうような口調だが、あきらかに弥生は松尾を問いつめようとしている。

 えへへ、と松尾は笑い、その笑顔を奈緒子のほうへ向けてきた。
 いま下手な口出しをすべきではないと判断し、奈緒子は目を瞬かせながら、問いかけの表情だけを作って松尾を見返した。

「松尾さんのそんな幸せそうな顔って、はじめて見たわ」
 弥生は、松尾と奈緒子を見比べるようにして言う。弥生の言葉には、どこかわざとらしさが見える。いまの言葉も、松尾と同時に、奈緒子に聞かせているのだ。

「置き忘れたおカネを、届けてくれたんですよ」
 松尾が言った。
「……おカネ?」
 弥生は、いぶかしげに訊き返す。
「ええ。ベンチにおカネの入った封筒を置き忘れちゃったんです。そしたら、この美佳さんが走って追いかけてきてくれて、忘れ物ですよって」

 無表情であることを心がけながら、奈緒子は奥歯を噛みしめた。弥生の眼に、ある種の疑いの色が見えたからだ。
 弥生が、松尾昇という男を知っているなら、今の話を疑って当然だった。松尾は、カネの入った封筒を置き忘れることなど、絶対にしない男だからだ。
 封筒は奈緒子が用意した。忘れ物だと言って手渡すと、松尾は予想通りの反応を示した。つまり、5万円の入った封筒を、そのまま受け取ったのだ。

 突然、左手から女の悲鳴が上がった。
 思わずそちらへ目を向けると、斜め前の座席で長身の男若い女を見下ろしていた。雰囲気が、険悪に見えた。


 
     松尾  鳥塚弥生 長身の男
    若い女 

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