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 24:11 虎ノ門-新橋駅-銀座
 六条 忍
(ろくじょう しのぶ)


     シートに座った女性と、その前に立っている長身の男性が見つめ合っていた。
 状況はよくわからないが、二人の間でなにか諍いが起こっているようだ。女性のほうの表情はかなり真剣で、それに対して男性のほうは弱り切っている感じだった。

 女性のほうが頑なな表情を崩さずに下を向いた。顔も見たくないという意思表示に見えた。
 あまり見ているのも失礼だろうと、忍は二人の男たちに目を返した。

「アサ、ニシ、マサ?」
 別所が、やや頼りなげな表情で忍を見ながら言った。
「…………」
 え? と忍は、別所を見つめ返した。
 それをどう受け取ったのか、別所は、小さく首を振って照れたように笑った。

「あの……今、なんて?」
 別所は、苦笑いのような顔で、また首を振る。
「アサ、ニシ、マサ──って、やっぱり、あれも『/』の言葉ですよね」
「……読んだんですか?」
 忍は、眼を瞬いた。

「ごめんなさい。間違ってるかもしれない」
「…………」
 ぶるぶると、忍は首を振った。
 なんだか、突然、胸の動悸が激しくなった。

 そんなことって……ほんと?
 ほんとに、人の心を読むなんてこと、できるの? この人。

「なんの話?」
 稲葉が、怪訝な表情で別所と忍を見比べた。
「あたった──」
 忍は、それだけ言った。言ったとたん、別所の表情が、ぱっと明るくなった。
「え……」
 稲葉が、ポカンとした顔で、別所を見返す。
 別所は、また照れ笑いをしながら頭をかいた。

「あたった?」
 稲葉が別所に訊く。別所が首を竦めた。
 忍は、ごくりと唾を呑み込んだ。

「たしかに、アサ、ニシ、マサって思ったんです。でも……信じられない。どうして?」
「あ……え? 達也、お前──」
 稲葉までが、驚いた表情で別所を見つめる。別所は、あいかわらず照れ笑いのまま、ふう、と息を吐き出した。
 気がついたように、稲葉が笑顔になって忍のほうを向いた。なんとなく強張ったような笑顔に見えた。

「こりゃ……珍しいなあ。会ったばっかりの人の心をこいつが読んだのって、初めてじゃないかな」
「はじめて?」
 訊き返すと、稲葉はうなずいた。
「親しくならないと……っていうか、繰り返し練習しないと、なかなか読めないみたいなんですよ。でも、いや、こいつは、びっくりしたなあ。お前、読めたの?」

 ふっ、と別所が笑った。
「ちゃんと聞こえたわけじゃないよ。なんて言ったのか、しばらくわからなかった。〈アサ、ニシ、マサ〉なんて、言葉になってないもの」
「聞こえるって……」と忍は別所の顔を覗き込む。「それは、頭の中に聞こえてくるんですか?」
 困ったように、別所は忍を見返す。

「頭の中──」
「そうじゃないんですか?」
「……自分でもよくわからないんですけどね。歯が疼くみたいな感じっていうか」
「歯?」
 思わず、忍は自分の口を指さした。
 別所が笑った。

 電車がスピードを緩め、窓の向こうが明るくなった。
 駅だった。
 言われたとおり、切符は日本橋まで買ってある。座席は、あちこち空いているが、別所も稲葉も、座るつもりはまるでないようだった。
 車内の客たちが移動をはじめ、なんとなく車内が落ち着かなくなった。

 歯が疼くみたいな感じ……。
 そんな言葉が出てくるとは思わなかった。気がついて、忍はバッグから手帳を取り出し、そこに一行「歯が疼くみたいな感じ」と書きつけた。

 歯が疼いて、それがどんなふうに聞こえるのか、イメージするのは難しいが、それを言った別所の言葉には妙なリアリティのようなものがあった。

 これが、もっともらしく「精神を統一すると見えてくる」とか、そんなことを言われたとしたら、ただ、ふうん、と思うだけだろう。ところが、別所は「歯が疼く」と言ったのだ。
 超能力者について書かれた本も、何冊かは読んでいるが、歯が疼く超能力者など、どこにもいなかった。

 もう一度だけ……と、忍は考えた。
 難しいのかもしれないが、別所が本物なら、なんらかの反応はしてくれるだろう。だって「アサ、ニシ、マサ」を読みとったのだ。

 忍は、眼を閉じた。
 ──グイド、グイド、グイド。
 何度も唱える。

 電車が動き始めたとたん、前方で大きな音がした。
 眼を開けて見ると、男の人が床に倒れていた。
「…………」
 男は、何ごともなかったように立ち上がった。

 それを振り返って眺めていた別所が、吹き出しそうになりながら忍を見た。
「あのマストロヤンニがやってた監督の名前、グイドでしたっけ?」
「…………」
 忍は、思わず眼を見開いた。


 
    シートに
座った
女性
長身の
男性
  
 別所   稲葉 
   
男の人 

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