前の時刻 次の時刻

  

 24:11 新橋駅
 根本陽広
(ねもと あきひろ)


     いいかげんウンザリしてくれるんじゃないかと期待したが、小早川の旦那はめげる気配もない。

「どうやら、君たちはみんな、奥さんが怪しいという意見で一致してるみたいだな」
「意見っていうより、誰が見たって、怪しいよ」
 と、万里子が言う。ウンザリしているのは、どちらかというと彼女のほうであるらしい。その言葉は、実に簡潔で素っ気ない。
 元気な薫ちゃんは、饅頭でも呑み込んだような表情でうなずく。

「奥さんは、嘘をついてると言うわけだ」
 旦那は、まだあきらめない。
「小早川さんは、そう思わないの?」
 ウンザリ万里子も、負けはしない。
「思うも思わないもないよ。今の時点で、先入観を持ちたくないってだけのことだ。奥さんが嘘をついている可能性はあるが、断言できるほどのものじゃない」
「……断言したって、いいと思うけどなあ」

 うなずき合う万里子と薫ちゃんを、小早川が見比べた。
 なんだか、絵に描いたような3人だった。まるでコントですよ、これ。

 笑い出した途端、またあくびが出た。
 薫ちゃんが、キョトンとした顔で根本を見返した。

「いやあ……」ごまかしながら首を振り「なんというか。面白いねえ」と、また笑ってみせる。

「2番線に電車が参ります」アナウンスが告げる。「参ります電車、浅草行の最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意ください。2番線、まもなく電車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がってお待ちください」

 次の言葉を待っているのか、薫ちゃんは、まだ根本のほうを見ている。
 可愛いなあ。

「なにが面白いの?」
 ぴょこっと首を傾げるようにして訊く薫ちゃんに、笑ってみせた。
「なんていうかなあ……この、小早川先生とお二人の噛み合わなさが、なんとも心地よく面白いよ」
「からかってんの?」
 万里子が訊いてくる。
 根本は、万里子にも笑ってみせた。

「からかってない、からかってない。センセイが、嘘をついているというなら裏を取らなきゃダメだって方向へ持っていこうとしてるのに、二人は、断言しちゃえばいいってところで意気投合してるし」

 言っていることが不真面目だと思ったのか、万里子はむすっとした顔でそっぽを向いた。

「ねねね」と、薫ちゃんが腕を叩いた。「根本さんは、奥さんが怪しいって思ってるわけでしょ?」
「思ってるよ。思ってるけど、それは、なんかへんだよなってことであってさ。もともと、たった一日の取材で断言できることなんて警察の発表ぐらい──いや、警察の発表だってときどき怪しかったりするけどね。とにかく、断言しちゃえば面白いけど、それだと俺たちがやる仕事なくなっちゃうよ」

 言いながら、根本は右手に目をやった。
 シルバーボディの電車がホームに到着する。先頭車両が目の前に停まり、ドアが開いた途端、OLっぽい女性が飛び出してきた。痴漢にでも遭ったんだろうか……とふと思った。そんな表情だった。

「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」

 レディファーストで薫ちゃんと万里子が電車に乗り込み、小早川がその後へ続く。根本は、最後に乗った。
「すいてる、すいてる」
 薫ちゃんは元気いっぱい、ほとんど遠足に行く小学生みたいな声を上げてシートに飛び乗った。その隣に万里子が腰を下ろす。
 座りたかったが、座ると自分の瞼がどんな運命を辿るか予想がつき、やめにした。

「根本さん、疲れてるんだったら座ればいいのに」
 薫ちゃんが、言いながら見上げてくる。
 吊革にぶら下がっている格好が、よほど惨めに見えるらしい。いや、ほんとに惨めではあるんだけどさ。

「座ったら、寝ちまいそうだ」
 言うと、万里子が鼻先で笑うような妙な顔をした。
「薫ちゃんに膝枕してもらって寝ちゃえばいいじゃん」
 途端に、薫ちゃんが嬉しそうに笑い出した。
「あたしの太股、お肉いっぱいついてるから気持ちいいかも」

 ほんとに気持ちよさそうだと、つい根本は薫ちゃんの足に目をやった。ジーンズの太股が丸く膨らんでいる。
 ニコニコ笑っている薫ちゃんを、根本は眠い眼で眺めた。

 お願いしたら、ほんとに膝枕してくれるだろうか……。
 ふと、そんなことを考えた。
 気持ちいいだろうな、ほんとに。いつまでもそうしていたくなっちゃうかもしれないな。
 いや……なにを考えてるんだ、オレは。

 しかし、膝枕なんて、ずっとしてもらっていない。
 あれはとっても気持ちがいいのだ。ついでに耳の掃除なんかしてもらっちゃうと、もう、これが最高。耳掃除をしてもらって、頭をなでなでしてもらって……いや、ほんとに何考えてるんだよ、オレ。

 電車が動き出して、思わず吊革を握りなおした。
 車内がざわついているのに気づいて、根本は車両前方へ目を向けた。

「なに? どうしたの?」
 万里子がそちらへ目を向けながら言った。

 どうやら、客の一人が走り出した電車の揺れで倒れたらしい。根本には、その男が立ち上がるところしか見えなかった。
 根本の前で薫ちゃんが吹き出した。
「わるいわよ」
 万里子も笑いながら言った。

 疲れてるんだよ、と根本は思った。あいつだって、眠くて仕方ないんだよ。


 
    小早川の
旦那
万里子  元気な
薫ちゃん
    OLっぽ
い女性
その男 

   前の時刻 次の時刻