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 24:11 新橋駅
 武藤 薫
(むとう かおる)


     ときどき、あたしって良いフレーズを思いついちゃうのよね。
 これって、何? 才能? とか言って。

「どうやら、君たちはみんな、奥さんが怪しいという意見で一致してるみたいだな」
 小早川さんが、みんなを見渡しながら言った。そう。多数決だと勝ちね。
「意見っていうより、誰が見たって、怪しいよ」
 万里っぺが、すらっ、と答えた。
 薫も、大賛成の意を表してうなずく。

「奥さんは、嘘をついてると言うわけだ」
 確認好きな小早川さんは、それでも食い下がる。なかなか、根性が据わってるというか、あきらめが悪いって言うか。
「小早川さんは、そう思わないの?」
 万里っぺの反撃。
「思うも思わないもないよ。今の時点で、先入観を持ちたくないってだけのことだ。奥さんが嘘をついている可能性はあるが、断言できるほどのものじゃない」

 万里っぺは、薫のほうへ顔を向けてきた。
「断言したって、いいと思うけどなあ」
 いい。断言しましょう。と、薫はうなずいた。

 いきなり根本君が笑い出した。
 へ……と思って、根本君を見る。まだ笑ってる。あくびしながら笑うというのも、なかなか常人ではない。なんか知らないが尊敬に値する。

「いやあ……なんというか。面白いねえ」
 笑ったことを悪いと思ったのか、根本君は言い訳のように言ったが、そのときホームにアナウンスが流れた。

「2番線に電車が参ります。参ります電車、浅草行の最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意ください。2番線、まもなく電車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がってお待ちください」

 根本君は、こうしてじっくり見るとなかなかかっこいい。顎にポツポツと髭が顔を出している。その髭も、たぶん触るとジョリジョリして良いのでは、と思う。

「なにが面白いの?」
 訊くと、根本君は首を振りながら、また照れたように笑う。
「なんていうかなあ……この、小早川先生とお二人の噛み合わなさが、なんとも心地よく面白いよ」
 たしかに、噛み合ってないわね。心地よいかどうか、ちょっとわかんないけど。でも、そのセンスって、いただき。

「からかってんの?」
 万里っぺが、ちょっとカチンときたような声で訊き返した。
「からかってない、からかってない」根本君は、笑いながら万里っぺに首を振る。「センセイが、嘘をついているというなら裏を取らなきゃダメだって方向へ持っていこうとしてるのに、二人は、断言しちゃえばいいってところで意気投合してるし」

 おやあ……と、薫は根本君を見返した。

 根本君の肘のあたりを、チョンチョンと叩いて、薫は訊いた。
「ねねね、根本さんは、奥さんが怪しいって思ってるわけでしょ?」
「思ってるよ。思ってるけど、それは、なんかへんだよなってことであってさ。もともと、たった一日の取材で断言できることなんて警察の発表ぐらい──いや、警察の発表だってときどき怪しかったりするけどね。とにかく、断言しちゃえば面白いけど、それだと俺たちがやる仕事なくなっちゃうよ」

 ふうん……そんなもんだろうか。根本君が言うなら、そうなのかもしれない。
 思いながら首をひねったとき、電車がホームに入ってきた。
 目の前でドアが開き、それを待っていたかのように客が飛び出してくる。
「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」
 万里っぺと並んでドアをくぐり、客の少ない車内を見渡した。

「すいてる、すいてる」
 言いながら、薫はシートに腰を下ろした。隣に万里っぺが座る。
 ひょいと見上げると、万里っぺの向こうが空いているのに根本君は両手で吊革につかまって立っていた。

「根本さん、疲れてるんだったら座ればいいのに」
 言うと、微笑みながら根本君は小さく首を振った。
「座ったら、寝ちまいそうだ」
「薫ちゃんに膝枕してもらって寝ちゃえばいいじゃん」
 隣で、万里っぺが平然と言う。

 なんてことを……と思いながら、薫は、きゃはは、と笑い声を上げた。
「あたしの太股、お肉いっぱいついてるから気持ちいいかも」
 言って、ちょっぴり恥ずかしくなった。こうなったら笑うしかない。

 根本君を膝枕……。
 ぐひひひひ。
 なんとなく、膝枕したところを想像して、薫は耳を赤くする。

 いやあ……照れますな、こういうのは。

 なんとなく、根本君の顔が見づらくなった。
 だってさあ、膝枕なんてしてあげちゃったら、そりゃあ、いくとこまでいっちゃうってことでしょ。
 うわあ、困ったなあ。そんなのって、困りますよ、ワタクシとしては。

 根本君が、自分を見つめているのを感じた。
 見てる? うっそお。なんで見てるの?
 やだあ。こまっちゃうよぉ。

 電車が動き出した瞬間、左手で何か大きな音がした。
 見ると、なんと男の人が床にぶっ倒れている。
「…………」
 それも、俯せにモロべたっと顔を床にへばりつかせて。
「なに? どうしたの?」
 隣で万里っぺが訊いた。

 男の人がむっくりと起きあがり、何事もなかったようにすました顔で立ったのを見て、思わず薫は吹き出した。
「わるいわよ」
 そう言った万里っぺの声も、笑いで震えている。

 お腹の皮が、ヒクヒクと波打っていた。


 
    小早川
さん
  
万里っぺ 根本君 
    男の人 

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