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 24:12 銀座駅
 福屋浩治
(ふくや こうじ)


    「今はまだだ」
 まるで休日の公園でひなたぼっこでもしているような気の抜けた口調で竹内主任が言う。顔は狩野刑事の方に向いているが、その言葉は明らかに福屋に向かって言われたものだ。
 嫌味のつもりなのだろう。そんなものにくじけている場合ではない。

「ちょっとよろしいでしょうか」
 この際、と思って福屋は主任に言った。
「なんだ」
 やはり、寝ぼけたような声で訊き返す。福屋のほうには目もくれようとしない。

「被害者のガードに当たれということですが」
「そうだ」
「得策ではないと思います」
 隣にいる狩野刑事が睨みつけてきた。いくら睨まれようがかまったものか。

「それよりも重要なことがあると言いたそうだな」
 どこか薄笑いを浮かべながら主任が言う。そして、福屋の肩をあやすように叩いた。やはり子供扱いだ。
「頼むから、声を落として喋ってくれ。銀座中に聞かせる必要はない」
「…………」

 この緊張感の欠如はなんだ?
 これが、警視庁有数の名刑事の本性なのか。

「何が言いたい?」
 ばかにした口調で主任が訊く。
「我々がガードしているのを犯人に見せるのは得策ではありません」
 情けない、と思いながら、福屋はその思いをグッと堪えて主任に進言した。
 本当に情けない。こんなことを、後輩から指摘されなければ気がつかない男のどこが名刑事なのか。

 しかし、首を振って言う主任の言葉に、福屋は愕然とした。
「なるほどね。君には、犯人に見せるようなガードしかできないのか?」
「…………」
「見せないようにガードしてくれ」

 失望した──。
 これほどレベルが低いとは思ってもいなかった。

 正直なところ、福屋は、会ったこともない竹内重良という刑事に憧れを抱いていた。しかし、この瞬間、その憧れが崩れて消えた。こんなことなら会わないほうがましだった。その実態を知らなければ、いつまでも憧れを持ち続けることができただろう。
 聞くと見るとでは大違いだ。憧れを抱いた自分が、無性に腹立たしかった。

「──かもしれない」
 何か主任が言ったが、その言葉はホームに流れるアナウンスにかき消された。どうせ、また嫌味だろう。

「まもなく電車が参ります。1番線と2番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。1番線は赤坂見附、表参道方面、渋谷行。2番線は、神田、上野方面、浅草行の最終電車です。浅草行は、最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意下さい。1番線と2番線に電車が参ります」

 いよいよだ……。
 福屋は、下腹に力を込めた。

 主任と狩野刑事が、また何かをささやくように言い合っていたが、福屋はもう二人の言葉を聞く気も起こらなかった。どうせ、後輩を除け者にするために、お前は部外者だということを見せつけているだけのことだ。

 だとすれば、かまわない。
 自分は、自分で正しいことをするまでだ。

 福屋は、いつどこで異変が起こっても対処できるように身構えた。先輩たちが頼りにならないとなれば、自分でなんとかする以外にない。

 いよいよ決戦の時だ。
 誘拐犯は、自分が捕らえる。この緊張感の欠如した二人に任せておいたら、せっかくのチャンスを逃してしまうことになる。世間は警察の不甲斐なさを叩くだろう。おきまりのパターンじゃないか。

 やる気がないのだ。この人たちには、悪を根絶しようという気も、世の中を明るくしようという使命感もなにもない。
 何年も刑事畑にいるうちに、おそらくそんな気概など消えてしまうものなのかもしれない。
 そうはなりたくない、と福屋は拳を握りしめた。

「兼田さんには、和則ちゃんの救出を伝えますか?」
 狩野刑事が主任に訊いて、福屋は驚いた目を彼女のほうへ向けた。もっと驚いたのは、主任の答えだった。
「ああ。ほとんど時間はないが、落ち着いてもらうためにはそれが一番いいだろう。手際よく、兼田さんのすべきことを伝えてやってくれ」
「了解」

「…………」
 冗談で言っているのだろうか? と一瞬思った。被害者に子供の無事を知らせる? そんなことをしたら、兼田は金を犯人に渡すのを渋るだろう。身代金を渡すことなどどうでもいいと考えて子供のところへ飛んでいってしまうかもしれない。そうしたら、みすみす犯人を逃すことになってしまうではないか。
 この人たちは、やる気がないだけじゃなくて、そんな基本的なこともわからないのか?

 そのとき、福屋の全身に緊張が走った。
 渋谷行の電車の入線だ。
 兼田は、最後尾車両に乗っているという情報を得ている。つまり、福屋が立っているこの場所だ。そして、その兼田のいるところに、犯人が現われる──。

 そのとき、誰かが階段を駆け下りてくる気配を感じて、福屋はとっさに身構えた。
「…………」
 下りてきたのは、葛原係長湯浅だった。銀座署の先輩たちだ。
 スピードを落とす電車のほうへ目を返した。風圧が、軽く福屋の身体を押している。

 電車は、歯痒いような緩慢な動きで車体を軋ませながら停止した。同時にチャイムが鳴り、ドアが開く。
 兼田の所在はすぐに見て取れた。大きな青いクーラーバッグを抱えている。あのバッグの中に身代金が入っているのだ。

 主任と狩野刑事が兼田のほうへ近づいていく。
 あ……と思い、福屋も慌てて二人を追った。
 話すのをやめさせようとしたが、一瞬遅かった。

「兼田さん」
 と、竹内主任はやはり間延びしたような声で兼田に声を掛けた。
「安心してください。和則ちゃんは無事に保護されました」
 兼田が放心したような表情で主任を見返す。

 くそっ、と福屋は唇を噛んだ。

 狩野刑事は兼田の腕を取り「こちらへ。兼田さん」とホームの中央へ引っぱっていく。
 なにが、犯人に気づかれないようにガードしてくれ、だ。

「保護された?」
 兼田が訊き返し、狩野刑事がうなずいた。
「はい」

 福屋は、大きく息を吸い込み、ホームを一渡り眺め回した。
 よし、どこからでもこい。


 
    竹内主任 狩野刑事 葛原係長
     湯浅   兼田 

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