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 24:12 銀座駅
 狩野亜希子
(かりの あきこ)


    「今はまだだ」
 のんびりした竹内の口調に、亜希子はもう一度うなずいた。焦る必要はない。そう、その通りだ。

「ちょっとよろしいでしょうか」
 割り込むようにして福屋が言う。やはり、声が大きい。
 この人には、自分と竹内や亜希子しか見えていないのだろう。状況がまるでつかめていないらしい。

「なんだ」
 と、竹内が、穏やかに訊き返す。
「被害者のガードに当たれということですが」
「そうだ」
「得策ではないと思います」
 言い切った福屋を、亜希子は驚いて見つめた。

「それよりも重要なことがあると言いたそうだな」
 竹内は、そう言いながら福屋を見返した。突っかかりそうになっている福屋の肩をポンと叩いた。
「頼むから、声を落として喋ってくれ。銀座中に聞かせる必要はない」
「…………」
 微笑んでいる竹内の表情と、もどかしくて仕方がないという福屋の表情が、亜希子には好対照に見えた。

「何が言いたい?」
「我々がガードしているのを犯人に見せるのは得策ではありません」
 あらまあ……と亜希子は小さく溜め息をついた。
「なるほどね」と竹内は首を振りながら言う。「君には、犯人に見せるようなガードしかできないのか?」
「…………」
 言葉に詰まった福屋に、竹内は重ねて言った。
「見せないようにガードしてくれ」

 後ろのの会話が聞き取りにくかった。なにかをぼそぼそと話している。話してはいるが、その内容が耳に届いてこない。
 先ほど、女は男に、品物を確かめてから……というようなことを言っていた。

 品物……。
 男女が誘拐犯であるとすると、妙な言葉だ。その言葉は怪しげではあるが、どこかつかみ所がない。
 金を確かめてから、と言うならわかる。品物では、なんのことかわからない。

「やつらは違うかもしれない」
 竹内がポツリと言った。亜希子が顔を上げると、竹内は小さく首を振った。

「まもなく電車が参ります」アナウンスが、ホームに響き渡り、思わず亜希子は背筋を伸ばした。「1番線と2番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。1番線は赤坂見附、表参道方面、渋谷行。2番線は、神田、上野方面、浅草行の最終電車です。浅草行は、最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意下さい。1番線と2番線に電車が参ります」

 1番線と2番線を見比べるようにしている竹内に、亜希子は訊ねた。
「違いますか?」
「目は離さないほうがいい。やつらなら有り難いが、どうもそうではなさそうだ」
 なるほど、と亜希子はうなずく。
「では、浅草行で来る可能性が?」
 うん、と竹内は顎を引くようにして亜希子を見返した。

 やはり、素直にそう考えるべきなのだろう。
 と、亜希子は思った。
 竹内がそう直感したとすれば、おそらくそれが正しい。こういう状況では、誰もが怪しく見える。ちょっと耳に入った言葉に、意味を探そうとする。しかし、多くの場合、そこに意味などないのだ。

 もちろん、すべてを疑うことも必要な場合だって多く存在するし、基本的にはそうすべきだ。だが、その場合でも、結論は最後の最後まで留保しておかなければならない。疑いを持つことが、決めつけになってしまったら、それで真実を見誤る。

 しかも、身代金の受け渡しが行なわれるまで1分もないような状況で、憶測や先入観は禁物だろう。素直に、周囲のすべての状況を目に入れておくことが一番いいのだ。
 そして、経験者の言葉に従うことが。

「兼田さんには、和則ちゃんの救出を伝えますか?」
 竹内に訊いた。「ああ」と竹内がうなずく。
「ほとんど時間はないが、落ち着いてもらうためにはそれが一番いいだろう。手際よく、兼田さんのすべきことを伝えてやってくれ」
「了解」

 ふと、顔を上げた。
「有り難い。渋谷行のほうが先だ」
 ホームの向こうを見つめながら、竹内がつぶやいた。
 亜希子は「はい」と答えながら大きく息を吸い込んだ。

 さあ、いよいよだ──。

 渋谷行の電車が入線してきた。
 渋谷行──つまり、兼田勝彦はこの電車の最後尾車両に乗っている。身代金の入ったクーラーバッグを持って。

 亜希子は、下腹に力を入れた。
 やはり緊張した面持ちの福屋に目をやった。いざとなったら、この福屋を私がカバーしなければならない。

 電車の到着と同時に、竹内が階段のほうへ目を上げた。そこを駆け下りてくる銀座署の刑事が目に入った。
 確か、片方は葛原という名前だった。もう一人は──湯田だったか、湯村だったか……。

 ドアが開く音を聞いて、亜希子は電車に目を返した。
 最後尾車両中央のドアから、クーラーバッグを抱えて兼田勝彦が下りてきた。その緊張が、遠目にもわかる。

 竹内が動いて、亜希子も兼田のほうへ急いだ。向かいの電車が到着する前に伝えるべきことを伝えなければならない。
 兼田は、自分に向かってくる亜希子たちに気づいて、その場に立ちすくんだ。

「兼田さん」と、竹内が穏やかに声を掛ける。「安心してください。和則ちゃんは無事に保護されました」
「…………」
 言われたことの意味をはかりかねている様子の兼田の腕を、亜希子はそっと押さえた。

「こちらへ。兼田さん」
 ドアの前からホームの中央へ兼田を誘導する。
 ハッとしたように兼田が亜希子を見返した。

「保護された?」
「はい」
 亜希子は、うなずきながら竹内のほうへ目をやった。
 竹内は、すでに銀座署の刑事たちに指示を与えていた。


 
     竹内   福屋     
         葛原  湯田
だったか
湯村
だったか
    兼田勝彦

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