 | 24:12 新橋-銀座 |
|
笑ってはいけないと思うと、よけいに可笑しくなってしまう。アカの他人をジロジロ見るわけにもいかないが、真面目な顔をして「きおつけ！」をしたあの男の動作を思い出すと、また笑いがこみ上げてくる。 「小早川、あのさ」 と、根本が頭上で言った。 「提案があるんだけど、いいかな」 笑いの残った顔で２人の男を見上げた。 「ちょっと休んで、また明日ってことにしないか？」 「ああ……」 「オレ、明日、あの奥さんの周辺を歩き回ってみるからさ。怪しいの怪しくないのは、それからでもいいでしょ」 それを聞いて、とっさに口に出た。 「あ、あたしも行く」 隣で、薫も背筋を伸ばした。 「あたしも！」 途端に、根本が、ぷっ、と吹き出した。 それが気にくわなかったらしく、薫が訊き返した。 「なんで？ あたしが行くのって、おかしい？」 根本は、笑いながら薫に首を振った。 「２人も３人もいらないよ。遠足に行くんじゃないんだから。万里ちゃんか、薫ちゃんに任せてもいいけどね」 根本君の隣で、小早川がゆっくりと首を振った。 「いや、奥さんの周辺は根本にやってもらうのがいい」 「…………」 思わず、小早川を見返した。 「なにそれ？」 なぜか知らないが、今日の小早川は、徹頭徹尾気に入らない。なにを考えているのだろう。 「どうして、根本君なの？ 今日、あの奥さんを取材したのはあたしじゃないの。なんであたしじゃダメなの？」 言いながら、小早川の隣の根本へ目をやった。 「もちろん根本君がダメってわけじゃないわよ。根本君が優秀なのはよく知ってるから。でも、どうして、あたしじゃダメなの？」 言うと、小早川は、わざとらしく首を竦めてみせた。 ほんとに、いやな感じだ。 なにか、彼を怒らせるようなことをやっただろうか、と万里子はつい思った。しかし、すぐにその気持ちを振り捨てた。 「取材は、なるべく先入観を排してやったほうがいいからさ」 「…………」 信じられない……と、万里子は思った。 なんなのよ、こいつ。 「待ってよ」と、万里子は大きく息を吸い込んだ。「あたしは、先入観で取材するって言うの？」 痛くも痒くもない、という表情で小早川は万里子を見返した。 「さあ……君の場合、奥さんが怪しいということを立証するものがないかって目で歩き回る可能性が高いと思うからさ。気持ちがそっち側へ向いていると、重大な反証を見逃してしまう可能性もある」 「…………」 ムッとした。 思わず、小早川の脛のあたりを蹴飛ばしてやりたくなった。 「ずいぶん、失礼ね、それ。人のこと、なんだと思ってるの？」 万里子は小早川を睨みつけた。 今日の今日まで、こんなヤツだとは思ってもいなかった。それに気がつかなかったあたしも、そうとうのバカだ。 ふわあ、と気の抜けたようなあくびを、また根本が放つ。あくびしながら、小早川に言う。 「いや、あのさ。オレだって、わからんぜ」 小早川が根本に目を返した。 「……わからん、とは？」 「先入観の有無なんて、人間だからね。誰だって多少の先入観はあるよ。反証材料がほしいなら、むしろ、適任はお前さんなんじゃないか？ まあ、お前さんにだって、何かしらの先入観はあると思うけどね」 なにを考えているのか、小早川はニタリと根本に笑いかけた。 なんとも嫌みったらしい笑顔だ。 「いや、そういう先入観の話じゃないさ」 その小早川の言葉を遮るようにして、根本が首を振る。 「万里ちゃんとオレの先入観にたいした違いはないよ。今日仕入れた材料は、この四人とも同じものを持ってるんだからさ。オレがやるにしても、今日の取材で得たものを足がかりにしてかかるしか方法はない」 「むろん、そうだ。そういうことじゃなくて──」 「いや」と根本は、また小早川を遮る。「おんなじだよ。万里ちゃんは、べつになにがなんでもあの奥さんを火あぶりにしてやろうなんて考えてるわけじゃない」 「…………」 ふうん、と思って根本を見上げた。 「万里ちゃんは、怪しいって言ってるだけだ。つまり、取材に一つの方向の可能性を持ってるってことだよ。被害者であるはずの奥さんが、他の証言者たちとは明らかに矛盾してることを喋ってるんだから、へんだと思うのが普通の感覚だろ？ そして、お前さんだって、それは感じてる。四人とも感じてることだ。その感じたものを、どう処理するかってことが、それぞれ違うだけだ。どの処理が正しいかなんてことは、たった一日の取材じゃ判断できねえだろ。まあ、明日、続いて調べてみてさ、その結果をまた持ち寄って検討すればいいわけでしょ」 そうそう、と薫が隣で小さく言った。根本に拍手までしてやっている。 万里子が口を挟もうとしたとき、アナウンスが次の停車駅を告げた。 「まもなく、銀座、銀座です。日比谷線中目黒行、丸ノ内線池袋行、新宿行はお乗り換えです」 アナウンスが流れている間、万里子は小早川を見つめていた。 なにが先入観なのよ。いったい先入観を持っているのはどっちなのさ。 クスクスと笑いながら薫が言う。 「一番いいのはさ、根本君には、ちゃんと睡眠時間を確保してあげることだと思う」 「おお、サンキュー」 感激したように、根本が薫に握手を求めた。 薫が照れながら根本の手を握る。 なんとなく気が抜けた。 「…………」 チラリと小早川に目をやると、やはり二人の握手を眺めながらニタニタと笑っている。 むかつく笑顔だった。 |
 | あの男 |  | 根本 |  | 薫 | |
 | 小早川 |