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 24:12 新橋-銀座
 武藤 薫
(むとう かおる)


     なんていうか、完膚無きまでにダサくない? あの人

 必死で堪えていても、あとからあとから笑いがこみ上げてくる。たすけてえ、って叫びたいぐらいだ。

「小早川、あのさ」と、根本君が眠そうな声で言った。「提案があるんだけど、いいかな」
 二人の男たちは、あいかわらず吊革につかまって立っている。空いてる席がないってわけじゃない。でも、立っている。
「ちょっと休んで、また明日ってことにしないか?」
 根本君の提案というのは、至極ごもっともだった。
「ああ……」と、小早川さんがうなずいた。

「オレ、明日、あの奥さんの周辺を歩き回ってみるからさ。怪しいの怪しくないのは、それからでもいいでしょ」
 そりゃそうだよね。根本君、ちゃんと寝なきゃ。奥さんのことなんて、明日でも、明後日でもいいんだから……って、そんなに悠長なこともしてられないんだろうけど。

「あ、あたしも行く」
 と万里っぺが言って、薫は顔を上げた。
「あたしも!」
 そう言った途端、根本君が吹き出した。

「なんで?」薫は根本君に訊き返した。「あたしが行くのって、おかしい?」
 ちょっと不満だった。
 根本君を見つめると、笑いながら、いやいや、と首を振った。
「2人も3人もいらないよ。遠足に行くんじゃないんだから。万里ちゃんか、薫ちゃんに任せてもいいけどね」

 任せてもらうっていうより……と薫は思った。一度、根本君の取材をナマで見てみたかったのに。

「いや、奥さんの周辺は根本にやってもらうのがいい」
 小早川さんが言って、薫はそちらへ目をやった。
「なにそれ?」と、万里っぺが突っかかるように言う。「どうして、根本君なの? 今日、あの奥さんを取材したのはあたしじゃないの。なんであたしじゃダメなの? もちろん根本君がダメってわけじゃないわよ。根本君が優秀なのはよく知ってるから。でも、どうして、あたしじゃダメなの?」

 小早川さんは肩を竦めるようにして、眉を上げた。
 なんとなく小早川さんの言いたいこともわかるような気がするけれど、万里っぺが文句を言うのは当然だ。ちょっと見下されてるような気がするし、万里っぺやあたしだって、そんないい加減な仕事してるわけじゃない。

 でも、小早川さんは、さらに万里っぺを怒らせるようなことを言った。
「取材は、なるべく先入観を排してやったほうがいいからさ」
 万里っぺのむっとした表情が、その顔を見なくても想像できた。
「待ってよ。あたしは、先入観で取材するって言うの?」
「さあ……君の場合、奥さんが怪しいということを立証するものがないかって目で歩き回る可能性が高いと思うからさ。気持ちがそっち側へ向いていると、重大な反証を見逃してしまう可能性もある」

 反証……。
 薫は口の中でつぶやいてみた。
 反証って、つまりあの奥さんの言ってることが正しいって証明するようなものが、どこかにあるってこと? 逆に言うと、ケーキ屋さんやウエイトレスが嘘ついてるとか、そういうことになっちゃうわけ?
 そんなもの、あるんだろか。

「ずいぶん、失礼ね、それ。人のこと、なんだと思ってるの?」
 万里っぺが、当然の抗議をした。
 でも、小早川さんは、涼しい顔をして万里っぺを見返している。

「いや、あのさ。オレだって、わからんぜ」
 根本君が、あくびをしながら小早川さんに言う。
「……わからん、とは?」
「先入観の有無なんて、人間だからね。誰だって多少の先入観はあるよ。反証材料がほしいなら、むしろ、適任はお前さんなんじゃないか? まあ、お前さんにだって、何かしらの先入観はあると思うけどね」

 そうだそうだ、と薫はうなずいた。
 でも、小早川さんは、その根本君に笑顔で応える。
「いや、そういう先入観の話じゃないさ」

 小早川さんが言おうとするのを、根本君は首を振って遮った。
「万里ちゃんとオレの先入観にたいした違いはないよ。今日仕入れた材料は、この四人とも同じものを持ってるんだからさ。オレがやるにしても、今日の取材で得たものを足がかりにしてかかるしか方法はない」
「むろん、そうだ。そういうことじゃなくて──」
「いや」と根本君は、首を振った。「おんなじだよ。万里ちゃんは、べつになにがなんでもあの奥さんを火あぶりにしてやろうなんて考えてるわけじゃない」

 その通りよ、と薫は根本君を見上げた。
 眠くてしょうがないのに、ちゃんとわかってるんだからすごいなあ。やっぱり根本君って、いい感じだなあ。

「万里ちゃんは、怪しいって言ってるだけだ」と、根本君は続けた。「つまり、取材に一つの方向の可能性を持ってるってことだよ。被害者であるはずの奥さんが、他の証言者たちとは明らかに矛盾してることを喋ってるんだから、へんだと思うのが普通の感覚だろ? そして、お前さんだって、それは感じてる。四人とも感じてることだ。その感じたものを、どう処理するかってことが、それぞれ違うだけだ。どの処理が正しいかなんてことは、たった一日の取材じゃ判断できねえだろ。まあ、明日、続いて調べてみてさ、その結果をまた持ち寄って検討すればいいわけでしょ」

「そうそう」
 薫は、パチパチと手を叩きながらうなずいた。
 その途端、車内にアナウンスが響いた。

「まもなく、銀座、銀座です。日比谷線中目黒行、丸ノ内線池袋行、新宿行はお乗り換えです」

 ふわあ、とまた根本君があくびをした。
 なんだか、あくびのしすぎで顎外れちゃったりしないだろうかと、心配になった。

「一番いいのはさぁ」と、薫は根本君を見上げながら言った。「根本君には、ちゃんと睡眠時間を確保してあげることだと思う」
「おお、サンキュー!」
 と、根本君が笑いながら薫のほうへ手を差し出した。

「…………」

 根本君と握手すると、そのひんやりした掌の感触がなんとなく嬉しかった。
 なんだか、ちょっぴりきまりが悪かった。
 照れてしまった。


 
    あの人  根本君  小早川
さん
  
    万里っぺ

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