前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 片石愛沙
(かたいし あいさ)


     飛弾野が座る位置をずらし、愛沙は緊張して身構えた。
「愛沙さんは、歴史がお得意なんですか?」

 白々しい場つなぎのお愛想に、愛沙はうんざりしながら首を振った。
「今回のは、たまたま本を読んでて思いついただけです。だから、時代考証とか、まるでメチャクチャかもしれません」
 なるほど、というように飛弾野がうなずいた。
「そう言えば、天ぷらって言葉が出てきましたよね。平八郎が自分の好物について話しているとき」

 天ぷら……?
 いきなり何を言いだしたのかと、愛沙は飛弾野に目を向けた。
「江戸時代は、天ぷらって言わなかったんじゃないかと思うんですよ。京都なんかでは、はんぺんを揚げたものを〈天ぷら〉って言ってたって聞いたことがありますけど、今の天ぷらのことは〈揚げ物〉って呼んでいたみたいですね」

「…………」
 愛沙は、思わず眼を瞬いた。天ぷらがなかった?
「そうなんですか?」
 訊き返した愛沙に、飛弾野は、またあの寒気を起こさせるような笑顔を作りながら、いやいや、というように首を振った。

「大丈夫ですよ。そういう瑣末なこと……って言ったら叱られるかもしれないけど、時代物の場合は、時代考証はあらためてちゃんと専門家に見てもらいますから。やっぱり、一番大事なのは、ドラマ自体が面白いかどうかですよね。いくら時代考証なんかきちっと出来てたとしても、そもそもの話が面白くなかったらどうしようもないですからね。愛沙さんの作品は、面白いわけですから。それが一番ですよ。時代考証は、そんなに気にされることないです」

 電車が銀座駅に滑り込み、ホームからの光に、愛沙はなんとなく顔を上げた。

 たしかに、大塩平八郎が天ぷらを好んでいたかということは、資料に書かれていたものではない。愛沙の創作だ。
 ただ、ドラマはそのあと、平八郎と鼠小僧次郎吉の密会の場面で天ぷらを食べさせるというシーンを控えている。平八郎に好みを言わせたのは、その伏線だった。天ぷらを揚げる小さな料理屋の中で、調理の火を見つめながら、次郎吉がある決断をするという重要なシーンだ。

 飛弾野の言っていることが間違いないなら、かなりの部分で書き直しをしなければならないことになる……。
 もちろん、書き直しをすることがイヤだというのではないが、それをこの飛弾野に言われて、というのが厭な感じを起こさせた。

 電車が停まって、愛沙の脇のドアが開いた。どことなく妙な雰囲気の男女が、開いたドアからホームへ降りていった。連れられている女の雰囲気が、いかにも嫌々付き合っているという感じで、どこか気にかかった。

「あの」愛沙は飛弾野に目を返した。「あの時代には、天ぷらってなかったんですか?」
 飛弾野は、ニタニタと笑いながらうなずいた。
「僕も、調べてみないと詳しいことまではわかりませんけど、少なくとも江戸時代では、相当身分のある人しか油で揚げた料理は食べられなかったみたいですよ。油っていうのが、すごく高価なものだったみたいですから、町人はもちろん、下級の武士だって口にできるようなものじゃなかったんじゃないかと思います。それに第一、〈テンプラ〉って言葉自体が外来語なわけですからね。陽明学者の大塩平八郎も、テンプラを知っていたかどうか……わからないですけど、たぶん知らなかった可能性って大きいんじゃないかと思いますね」

 え? と、愛沙は思わず飛弾野を見つめた。
「天ぷらって……外来語なんですか? 日本語じゃなかったんですか?」
 意外だという表情で、飛弾野が愛沙を見返した。
「ポルトガル語……だったと思いますよ。テンペロっていうのが調味料とか料理とかって言葉で、それが語源だって聞いたことがあります」

「ポルトガル語──」
 まるで知らなかった。
 その途端、飛弾野に渡してある自分の原稿のことが、とても不安に思えてきた。

 時代物なんて、やっぱり今の私には無理だったんじゃないだろうか。
 図書館に通って、たかだか20冊ぐらいの本を読んだ。ただそれだけで、なんとなくその時代がわかったような気になって原稿を書いた。わかったなんて、とんでもない思い上がりじゃなかったんだろうか。

 飛弾野の言葉が正しいなら、問題は「天ぷら」だけのことではないだろう。史実として使ったのは骨組みだけだ。ディテールは、ほとんどテレビの時代劇で見たものを拝借した。わからないところは、適当にでっち上げた。
 たぶん、専門家が見たら、嘘ばっかりの原稿になってしまっているのかもしれない……。

 不意に、正体のわからないゾクゾクしたものが、背後から被さってくるような感覚を覚えて、愛沙は後ろのウインドウを振り返った。
「キャーッ!」という女性の悲鳴がホームで上がったのが、それと同時だった。

「あっ」と声を上げて、飛弾野が隣で立ち上がった。
「…………」
 愛沙は声も出せずに、ホームの向こうを凝視した。

 男性が、全身から炎を上げていた──。
 見たこともない光景だった。男の人が、ホームの中央で立ったまま燃えている。

「どうしたの?」と、愛沙も立ち上がってウインドウにしがみついた。
「……どうしたの?」
 もう1度、言った。

 男の人は、燃えながらホームを転げ回っていた。彼の火を消そうとして、男性客2人が上着を振り回しながら炎を叩いている。

「なんなの? あれ、なんなの?」
 そんな言葉しか、愛沙の口からは出てこなかった。自分の身体が、情けないぐらい震えているのに気づいた。

 唐突に、数年前のキャンプを思い出した──。
 大学時代の思い出にするために、男3人、女3人で秋川渓谷でキャンプをやった。女の子3人が料理を作ろうと張り切っているとき、男子がイワナを釣って戻ってきた。
「焼くのもいいけど、こいつ揚げてもうめえぞ、きっと」
 そう言いながら、男子の一人が愛沙を押しのけ、あっという間にイワナを油の中へ放り込んだ。油が飛び散り、その男子と愛沙のズボンにかかった。べつに、2人とも火傷をしたわけでもなかったし、結局は、大笑いしてその場は終わった。

 彼とは──そのあと2年間付き合い、そして別れた。
 いきなり甦った昔の彼氏のイメージが、ホームで炎を上げている男性と重なった。

 気がつくと、飛弾野はドアのほうへ移り、ホームのほうに向かってカメラを構えていた。
 何が起こったんだろう。
 倒れている男性の回りをホームの客たちが遠巻きに囲んでいた。

「…………」
 愛沙の背中を、また不安をかき立てるような感覚が駆け上がってきた。
 その瞬間──。

 目の前のガラスが、真っ白になって輝いた。
 同時に、そのガラスがアメのようにたわみ、愛沙の身体全体に貼り付いた。そして、耳を聾するような音と共に、愛沙は空中に放り出され、そのまま暗闇の中へ吸い込まれていった──。


 
    飛弾野  連れられ
ている女
 男性 

   前の時刻 ……