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 24:11 虎ノ門-新橋駅-銀座
 稲葉不二夫
(いなば ふじお)


     へん?

 OLを見比べながら、稲葉は六条忍の言った言葉を口の中で繰り返した。

 へん……って、なにがへんなんだよ。
 よくわからなかった。それを言ったとき、この女は口許に笑いのようなものを浮かべていた。なんとなく、嫌な感じの笑いだった。どこか、勝ち誇ったような、あるいは、皮肉のような──。

「あすにします?」
 横で、達也がつぶやくように言った。
 自分に言われたのかと思ったが、そうではなかった。達也は六条忍を見ている。
 明日にするって……なにを?
 何をいきなり言い出してるんだ、こいつ。

「あの……今、なんて?」
 六条忍にも、よくわからなかったと見えて、彼女が訊き返した。
「あさにします──って、やっぱり、あれも『/』の言葉ですよね」
 弱り切ったような表情をしながら、達也は六条忍に、また妙なことを訊く。
「……読んだんですか?」
 彼女のほうの反応も妙だった。

 読んだ? 何を……?

「ごめんなさい。間違ってるかもしれない」
 そう言って謝った達也に、六条忍が首を振った。

「…………」
 なんだ、お前ら?
 と、稲葉は二人を見比べた。二人は見つめ合ったまま、固まっているように見えた。

「なんの話?」
 訊いたが、二人とも答えない。
「あたった──」
 六条忍が、また妙なことを言う。達也がその言葉に笑顔を見せた。
「え?」
 と、稲葉は、達也に目をやった。達也は、髪をぐしゃぐしゃと掻き上げながら笑っている。なんだかわからないが、二人の間では、なにかのコミュニケーションが成立しているらしい。

「あたった?」
 訊くと、達也は、えへへ、といった感じに首を竦めてみせた。六条忍が、小さくうなずく。
「たしかに、朝にします、って思ったんです。でも……信じられない。どうして?」

 朝にしますって思った──?
 信じられない?
 あたった……?

「あ」と、稲葉は達也を凝視した。「え?」とっさに次の言葉が出てこない。「達也、お前──」

 まさか……と、稲葉は眼を瞬く。
 あたった?
 それ、もしかして、六条忍がさっき読み取ってくれと念じた言葉を、達也が言い当てたってことなのか?
 うそだろ……。

 あ、いや……と気がついて、稲葉はとっさに笑顔で六条忍に目を返した。そんなこと、あるわけないが、しかし、ここはうまく切り抜けなきゃならない。
 達也がどうやってこの女の考えを言い当てたのかってのは、後回しだ。

「こりゃ……珍しいなあ」と、稲葉は必死で言葉を探した。「会ったばっかりの人の心をこいつが読んだのって、初めてじゃないかな」
「はじめて?」
 六条忍が訊き返して、稲葉は笑顔のままうなずいて見せた。
「親しくならないと……っていうか、繰り返し練習しないと、なかなか読めないみたいなんですよ。でも、いや、こいつは、びっくりしたなあ。お前、読めたの?」

 達也が嬉しそうに笑う。
「ちゃんと聞こえたわけじゃないよ。なんて言ったのか、しばらくわからなかった。朝にします、なんて、言葉になってないもの」
 言葉になってない……?
 また、よくわからなくなった。

 六条忍が、達也を見つめる。
「聞こえるって……それは、頭の中に聞こえてくるんですか?」
「頭の中……」
「そうじゃないんですか?」
「……自分でもよくわからないんですけどね。歯が疼くみたいな感じっていうか」
「歯?」

 おいおい……と、稲葉はいささか慌てた。お前、まさかばらすつもりじゃないだろうな。
 しかし……モールス送ったわけでもないのに、どうして達也に──。

 新橋駅に電車が到着して、車内が明るくなった。乗客たちがドアへ向かう。

 さっぱり見当がつかなかった。
 達也の歯が受け取れるのは、FMだけだったはずだ。人の心がFMに乗るなんてことあるわけないし……そりゃそうだ。考えてることがみんなFMの電波に乗ったりしたら、放送なんてうるさくて聞いてらんないだろう。

 じゃあ、どうして?

 まさか……と、思いながら、もう一度達也を眺めた。
 そんなことって、あるのか?
 ──明日にします?

 その眼を六条忍に戻したとき、稲葉は、あっと声を上げそうになった。
 彼女がまた、なにかを念じるように眼を閉じていたからだ。

 おいおい、どうするんだよ……と思ったとき、電車が動き出した。
 突然、向こうで何かが倒れるような音がした。
 見ると、妙な男が床に俯せになって寝ていた。むっくりと起きあがり、そのままこちらの方へ背筋を伸ばして立った。

「あのマストロヤンニがやってた監督の名前、グイドでしたっけ?」
 脇で、また達也がわけのわからないことを言い出した。
 そして、その言葉に、六条忍が眼を丸くするのが見えた。


 
     OL      六条 忍
     達也  妙な男 

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