「どうかしたの?」
と浜子に生き写しの女が訊き、日下部は、いや、と首を振った。
「その……私は、日下部敏郎というのです」
女が、パチパチと眼を瞬かせた。
「え? なに?」
「ですから、その……私の名前は、日下部敏郎で――」
女は、日下部の顔を覗き込むようにして眺めた。
「なに言ってんの?」
「いや……あまりに意外な偶然で、私も仰天してしまったのですが。あなたのお祖母さまの叔母さまが浜子という名前で?」
「うん……」
「そのおつれ合いが日下部敏郎だと――」
「おつれ合い……うん、まあ、そうだけど」
「いや」と、日下部は溜め息をついた。「面妖なこともあるものです。私は日下部敏郎と申しまして、亡くした妻の名前が浜子。このようなことも、あるものでしょうか」
いきなり、女が吹き出した。よく笑う女である。
「あるものでしょうかって、なによ、それ。馬鹿みたいな冗談言わないでよ」
日下部は、とんでもないというように首を振った。
「冗談? いえ、冗談などではありません。真実、私は日下部なのです」
「うそ……でしょ?」
「天地神明に誓って、まことです」
疑うのも無理はない、と日下部は思った。
実際、自分自身でも信じられないのだ。このような偶然が起こりうるとは、とても考えられない。これは、なにかの引き合わせなのかもしれない。この女と出逢ったのは、どこかで大きな意思が働いているのかもしれないではないか。
ふと、奇妙な気配を感じて、日下部は女の向こうへ目を上げた。
奇態な服装の男が、こちらへ向かってくるのが見えた。逼迫したような表情で、その男は、なんと日下部の隣の女の膝へ、腰を下ろそうとしたのである。
思わず、日下部は腰を浮かせた。
「なによ!」
女が、気丈にも男を突き飛ばそうと両の腕を突き出した。
だが――。
日下部は、そこに摩訶不思議な光景を見た。
なんと……!
前へ伸ばした女の両腕が、その男の身体を突き抜け、胸を破って飛び出したのだ。
この女、空手の達人であったか、と一瞬思ったが、次の光景に日下部は我が眼を疑った。
胸を突き破られたにも関わらず、男はいささかのひるみもみせず、そのまま女の上に腰を下ろしてしまったのである。いや、男が腰を下ろしたのは女の膝の上ではなかった。男の尻は女の腿を空気のように無視し、直接、長椅子の上に落ち着いたのだ。
女のほうも、事態に仰天した様子で、飛び上がるようにして席を立った。
それが、日下部の眼には、醜いさなぎの中から美しい蝶が抜け出したように見えた。
いや、そんな場合ではない、と日下部は席を立ちながら男につかみかかろうとした。
「き、君! 失敬な!」
そう言い、腕を伸ばしたまま、日下部はその場に立ちすくんだ。
男の身体をつかむことができなかったのである。
「…………」
手は、たしかに男の肩のある場所に到達していた。しかし、そこにはなにも存在していなかったのだ。手は空をつかみ、男の身体の中へいささかの抵抗もなく埋め込まれてしまった。
こ、これは……。
日下部は、驚いて自分の手を引き戻し、その手を眺めた。
なぜだ……?
「まもなく上野、上野でございます」
と、目に見えぬ車掌の声が、また乗客たちに告げた。
理由もなく、日下部は立ちつくしたままの女に目を返した。
女も、眼を見開いたまま、わからないと言うように首を振った。
日下部は、再び自分の手に目を返した。
右の手で、左の手首をつかんでみる。
つかめる。当たり前のことだが、私の手はここにある。
では、なぜ?
そのとき、日下部は驚くべき異状を手首に発見した。
彼がつかんでいる手首には、当然存在していなければならないものが欠落していた。
脈が、ない……。
「うそ……」
という女の声が聞こえて、日下部は後ろを振り返った。
母親にもたれかかって眠っている男の子の頭を、女が静かに撫でていた。
「…………」
その彼女の指は、第二関節から先が男の子の頭の中へ没していた。
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