なにをビックリしてるんだろ、とひとみは男を見返した。
まるで、いきなり地面の上に引っぱり出されたモグラみたいな顔をして、男はひとみを見つめていた。もっとも、ひとみはモグラという動物を直接見たことはなかったが。
「どうかしたの?」
訊くと、男は何度も眼を瞬きながら小さく首を振った。
「いや……その、私は、日下部敏郎というのです」
え?
と、ひとみは訊き返した。
「なに?」
「ですから、その……私の名前は、日下部敏郎で――」
「…………」
ひとみは、男の顔をながめながら、眉を寄せた。いつの間にか電車が走りはじめていた。
「なに言ってんの?」
「いや……あまりに意外な偶然で、私も仰天してしまったのですが。あなたのお祖母さまの叔母さまが浜子という名前で?」
「うん……」
「そのおつれ合いが日下部敏郎だと――」
「おつれ合い……うん、まあ、そうだけど」
ふう、と男は息を吐き出した。
「いや、メンヨウなこともあるものです。私は日下部敏郎と申しまして、亡くした妻の名前が浜子。このようなことも、あるものでしょうか」
おもわず、ひとみは吹き出した。
「あるものでしょうかって、なによ、それ。バカみたいな冗談言わないでよ」
「冗談?」男は、慌てたように首を振った。「いえ、冗談などではありません。真実、私は日下部なのです」
「うそ……でしょ?」
「テンチシンメイに誓って、まことです」
ひとみは、じっと男を見つめた。
嘘を言っているようには見えなかった。
だけど、そんなことって……と、言いかけたとき、男が驚いたような視線をひとみの後ろへ向けた。
あ――。
よける間もなかった。
いつそこに立っていたのか、緑と赤のド派手なチェック模様のジャケットを着た男が、いきなりひとみの膝の上に倒れ込んできた。いや――ひとみの膝に腰を下ろしてきたのだ。
「なによ!」
ひとみは、ジャケットの男を押しのけようと手を突き出した。
「…………」
しかし、そのひとみの手は、男の身体には触れなかった。
なんと、ひとみの腕は、男の背中を通過し、何の抵抗もなくその向こう側へ突き出したのである。さらに、男は、ひとみの身体をすり抜けるようにしてシートに腰を下ろしてしまったのだ。一瞬、その男とひとみの身体が、シートの上で混じり合った――。
ひとみは、慌ててシートから立ち上がった。
それは、まるで男の身体の中からひとみが抜け出してきたような感じだった。
「…………」
「き、君! シッケイな!」
言いながら、日下部がシートから立ち、ジャケットの男につかみかかった。
「…………」
しかし、そこでも奇妙なことが起こった。ジャケットの肩をつかもうとした日下部の手が、男の身体の中を通過して空を切ったのである。
ひとみの目には、日下部の手が男の身体に吸い込まれたように見えた。
「まもなく上野、上野でございます。日比谷線、JR線、京成線はお乗り換えです。お忘れ物ないよう、ご注意を願います。なお、電車とホームの間、広くあいております。足下にお気をつけ下さい。上野でございます」
車内アナウンスが告げた。
日下部が自分の手を顔の前へかざすようにして眺めていた。その目を、ひとみのほうへ向けてきた。ひとみは、ぶるぶると首を振った。
「…………」
おそるおそる、ひとみは、前のシートに座っている母親と子供に目を向けた。母親は、自分の目の前に腰を下ろしたジャケットの男を見つめている。近づいても、母親はひとみには目を向けなかった。そこにひとみがいるのを、まるで気づいていないようにも思えた。
そっと、ひとみは、眠っている男の子の頭をなでてみようとした。
「うそ……」
ひとみの指先が、男の子の頭の中へ吸い込まれるように消えた。
指先に触れた感触は、なにもなかった――。
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