![]() | 24:11 新橋駅 |
純子が、アサカネの常務の息子と……。 もう一度、新吉は口の中で繰り返した。 ほんとなんだろうか? 僕を驚かせるために、安江が嘘をついているだけなんじゃないだろうか? だって、純子は一言もそんな話をしなかった。 見合いはナンパとは違う。これからお見合いしませんか、なんて申し込みは聞いたことがないし、今度の休日の1時に不二家のパーラーでお見合いしよう、とかいうものでもないだろう。それなりの手続きを踏んで、それなりの前準備をしてというのが普通だ。相手が常務の息子だというならなおさらのことだ。 「…………」 つまり──と、新吉は口の中のガムを線路のほうへ吐き捨てた。 つまり、もしほんとうにお見合いをしたのなら、僕にそのことを話す時間は純子には充分あったはずなのだ。 でも、彼女は、見合いの「み」の字も言わなかった。 ということは、やはり安江の嘘だってことじゃないんだろうか? 純子は、僕に隠し事をするような人じゃない。 隠す必要なんて……なにもないはずだ。 そのはずだ。お見合いの話が来たって不思議じゃないんだから、それを笑い話にして──。 「2番線に電車が参ります」 アナウンスが流れて、新吉は目を上げた。 「参ります電車、浅草行の最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意ください。2番線、まもなく電車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がってお待ちください」 そう、笑い話だ。 「けっさくなの。アサカネの常務さん、あたしのこと気に入ってくれちゃったらしくて、息子さんと見合いさせたがってるのよ。笑っちゃうでしょ」 そう言ってくれればいいだけのことじゃないか。 「…………」 違うのだろうか。 いや、純子は僕がアサカネの担当者だということを知っている。言い出そうと思ったが……言い出せなくなってしまった、ということも。 新吉は、大きく息を吸い込んだ。 その音が牧課長や安江に聞こえたのではないかと、ギクリとした。 純子も、アサカネの契約がうまくいくことを祈ってくれていた。今度の件が、僕の正念場だということを、彼女は知っていた。 だから、その契約がダメになったら僕が困ると思って、見合いを断れなくなってしまった──。 「だけど、あれですね」安江が、笑いを含んだいやらしい声を出した。「考えようでは、なかなかいいことかもしれないですね」 「なにが?」 牧課長が、安江を振り返る。 「いえ、これが縁談がまとまってですよ、ウチの女の子とアサカネの常務令息が結婚と言うことになれば、契約はまとまる、結婚もまとまる──いいことずくめってことになりますよね。めでたいじゃないですか」 ホームに入ってくる電車の音が、安江の下品な笑い声を消した。 縁談がまとまる……。 そんなことは、あり得ない。絶対に、あり得ない。 いくら見合いをしたとしても、僕という相手がいるのに、純子が常務の息子なんかと──。 いや、絶対にそんなことはない。 電車が新吉たちの目の前で停止する。 新吉は、必死になって自分の中の不安を打ち消した。 動悸が速くなっているのを、感じていた。 耳の奥で、何かが鳴っている。 目の前で、電車のドアが開き、あわてて新吉は脇へよけた。乗客がぞろぞろと降りてくる。 「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」 降りる客がすむのを待ちきれないといった格好で、安江が電車に乗り込んでいった。その後に牧課長が続き、新吉は最後に乗り込んだ。 ドアを入ってすぐのシートへ、安江はさっさと腰を下ろした。課長に先を譲るような考えは、まるでないようだ。 安江の隣へ牧課長が腰を下ろし、新吉はそのまた隣に腰掛けた。 見合いの話が来たことを僕に話すこともできず、そして、それを断ることによって契約にヒビが入ることをおそれ──しかし、でもその縁談がまとまるなどということは、万に一つもあるわけがない。 純子は、断る。 絶対に断る。 でも……。 車両の前方からこちらへ歩いてくる浪内の姿が見えた。 その表情が、どこか曇っているように新吉には思えた。いや、それはむしろ新吉自身の表情だったのかもしれない。 浪内は、通路の中央に立っている巨体の男を迂回するようにして、新吉たちのところへたどり着き、笑いながら「どうもすいません」と言った。 「あ……」 電車が動き出した途端、浪内の後ろに立っている巨体男が、ばったりと床に倒れた。 新吉は思わず背筋を伸ばした。浪内は後ろを振り返り、牧課長は口許を手で押さえている。 しかし、男は、その無様な格好に照れているのか、無表情のまま起きあがって、先ほどと同じように直立した。床の汚れが男の顔についている。 どこか滑稽にも思えた。 |
![]() | 安江 | ![]() | 牧課長 | ![]() | 浪内 | |
![]() | 巨体の男 |