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 24:11 新橋駅
 浪内勝己
(なみうち かつみ)


     受話器を叩きつけたいような気分だった。
 しかし、それをすれば、好恵はそれを、話を避けてるからだとか、愛情がないからだとか勝手に受け取ってしまうに違いない。

 だから、浪内は、自分の腰のあたりを思い切り殴りつけるだけにした。痛かった。

「なあ、なんで泣くんだよ。泣くなよ」
 受話器の向こうからは、好恵がしゃくり上げる声がずっと聞こえている。
「なあ……」

 20万──。
 尋常な値段じゃない。
 なんで、そんな高いものを買う気になるんだろう。スーパーのチラシを何枚も比較して、やれこっちの店のほうが大根が7円安いとか、あっちでは豚肩ロースの特売やってるとか、そんなことを言ってるくせに、どうして20万もするコンドームを買っちゃったりできるんだよ。

 5年分だって?

 ああいうもの、5年分とか、そういう数え方するもんか? 月水金はゴミの日で、火木土はエッチの日?
 そんなもんと一緒にすんなよなぁ。

 そんなこと言われたら、張り切ってるもんだって元気なくなっちゃうよ。

「2番線に電車が参ります。参ります電車、浅草行の最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意ください。2番線、まもなく電車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がってお待ちください」

 アナウンスに顔を上げた。
 ホームの向こうに目をやる。

「なあ、ほんとに電車来ちゃうからさ。帰ってから、話しようよ」
「イヤなんだったら、帰ってこないで」
「…………」
 え? と浪内は受話器を耳から離して見つめた。

「イヤなんでしょ。いいわよ。だったらもういい。帰ってこないで」
「おい……ちょっと待ってよ。なんでそういう話になるの? イヤとか、そんなことオレ言ってないじゃないか」
「じゃあ、なんなの?」
「なんなのって……なにがだよ」

「ほら、ごまかしてる」
「ごまかしてないじゃないか。帰ってから話をしようって言ってるだけだろ」
「返品しろって話でしょ」
「……その話をしてるんじゃないのか」
「ほんとに、ぜんぜん聞いてないのね、あたしの話」
「…………」

 頭が混乱した。
 好恵の話──。

「ちっともわかってないのね。あたしたちが今どんな状況なのか、まるでわかってない」
「状況って──」

 電車がホームに入ってきた。

「あ、あのさ。とにかく、状況の話も、返品の話も、帰ってからだ。電車が入ってきたから、これで切るよ」
「────」
 受話器の向こうではなにも言わなかった。
「おい、好恵──」

 電話が切れていた。
「なんだって言うんだよ、もう!」
 受話器を叩きつけるようにして戻した。

 浪内のいる場所がホームの一番端だったために、電車はちょっと離れたところで停車した。急ぎ足で電車の先頭へ向かう。

「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」

 先頭のドアから数人の客が吐き出されてくる。牧課長たちは、一つ向こうのドアから乗ったらしい。
 浪内は若い男女の後に続いて電車に乗り込んだ。

 気持ちがムシャクシャしていた。
 課長たちのいる車両中央へ向かいながら、浪内は、いったい何がどこでこうなってしまったんだろうとため息を吐き出した。

 好恵に不満を感じたことはない。
 愛してるとか、そんなセリフは口にしたことはないが、その気持ちは好恵に充分伝わっていると思っていた。

 それが、どうして「離婚したいの?」ということになるのだ?
 どうして「イヤだったら、帰ってこなくていい」ってことになるのだ?

 会社の面々と顔を合わせるのが辛かった。
 せっかく、おいしい食事をごちそうになって、飲み足りない気分ではあるけれど、自腹を切らずにビールと日本酒にありついた。それなのに、こんな気分にさせられるなんて。

 課長を挟むように、ドア側に安江が、舟山は向こうに腰をかけていた。
「どうも、すいません」
 彼らの前へ歩いて行って、無理矢理笑顔を作りながら浪内は言った。
 そのとき──。

 電車が動き始めた直後、突然、浪内の背後で激しい音がした。びっくりして、浪内は後ろを振り返った。

「…………」

 大柄な男が、電車の床にベッタリと倒れていた。
 何が起こったのかと見つめていると、男はむっくりと起きあがり、無表情に電車の進行方向と逆のほうに向かって立った。男の顔には、床の汚れがそのままついていた。


 
    牧課長   安江   舟山 
    大柄な男

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