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 24:11 新橋駅
 安江 務
(やすえ つとむ)


     どうやら、舟山は自分の恋人の見合い話をまるで知らされていなかったらしい。
 かわいそうにねえ、と安江はこみ上げてくる笑いを抑えながら口の中でつぶやいた。

 まあ、前野って彼女にしてみても、舟山みたいな腑抜けよりも、天下のアサカネの常務ご令息のほうがいいに決まっている。ご令息がどんなヤツかは知らないが、そんなのは二の次だ。
 所詮、毛並みのいい男にはかなわないんだからさ。

 もちろん、家柄とか、収入とかは関係ないって女だっているだろう。愛があれば、あとはなにもいらないなんて言葉はよく聞く。でも、それは建て前であってね。

 この愛すべき舟山君も、きっと彼女は愛こそすべてと言ってくれると思ってたに違いない。
 違ってたんだねえ。かわいそうに。

 愛こそすべてなら、彼女は見合いなんてしないよな。
 なんとなく見合いする羽目になったんだとしても、舟山君のことを真剣に考えてるなら、秘密に見合いしちゃうってこともないだろう。

 そんなもんなんだよ、女ってのはさ。
 現実的なんだ。ホテルのラウンジかなんかで、いいムードになっていても、彼女の頭の中では、ここの食事代いくらになるんだろう、なんて考えてたりするわけだしさ。
 秤に掛けたら、常務の息子のほうがいいってことになっただけのことね。

「2番線に電車が参ります。参ります電車、浅草行の最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意ください。2番線、まもなく電車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がってお待ちください」

 きたきた、と安江はぐるりと頭を回して、電車が入ってくる右の方へ目をやった。電車の姿はまだなかった。
 ついでに舟山を盗み見る。

 どうだ、完全に黙り込んじゃったじゃないか、おぼっちゃん。
 舟山は前方へ目をやり、傍目からは線路を凝視しているように見えた。

 さあ、どうするつもりかな?
 彼女に問いただすか? いや、それはやめたほうがいいと思うけどね。傷がさらに深くなるだけのことだと思うしね。彼女が、見合いのことを言わないのは、それなりの理由があってのことだと思うよ。

 愉快で仕方がなかった。
 安江も、ここまで舟山が見事に反応してくれるとは思っていなかった。思わぬヒットだった。

 だとすると、追い打ちをかけてやりたくなる。
 なんて言ったっけ、さっきこの舟山君は。
 ──ようするに、ひがみですか、それは安江さんの。
 ふざけた口をきくんじゃないっていうの。

「だけど、あれですね」
 安江は、舟山本人ではなく、牧課長のほうへ言った。
「考えようでは、なかなかいいことかもしれないですね」
「なにが?」
 牧課長は、すい、と安江のほうへ顔を向けてきた。ほんのちょっぴり色っぽい。これが、課長じゃなけりゃなあ、と安江はつい思った。
「いえ、これが縁談がまとまってですよ、ウチの女の子とアサカネの常務令息が結婚と言うことになれば、契約はまとまる、結婚もまとまる──いいことずくめってことになりますよね。めでたいじゃないですか」

 声を上げて笑ったが、牧課長はニコリともしなかった。もちろん、舟山は笑えるような状態じゃない。
 ホームの右から電車が入ってくる。
 実にいい気分だった。

 常務の息子と舟山君の元彼女の結婚式には、是非出席してみたいものだ。もちろん、舟山はアサカネの担当なのだから出席しないわけにはいかない。
 どんな顔をするかね、このぼっちゃんは。

 電車が停まりドアが開くと、客が降りてきたのにびっくりしたような顔で、舟山が後ずさりした。完全に、気持ちが向こう側へ行っちゃってるらしい。

「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」

 ノロノロと降りる客をよけて、安江は電車に乗り込んだ。
 ドアのすぐ脇のシートが空いていて、安江はその端に腰を下ろした。右隣に牧課長が座る。その途端、ふわっといい匂いがした。どこかで嗅いだことのある香水の匂いだった。どこで嗅いだのか、思い出せなかった。

 舟山は、黙り込んだまま牧課長の向こう隣へ座る。見ると、頭を撫でてやりたくなるような暗い顔をしていた。

 その舟山がこちらへ目を上げて、安江もつられてその視線のほうを振り返った。
 車両の先頭から浪内がヒョコヒョコやってくる。
 やっと電話が終わったらしい。いつものことだが、苦虫を噛みつぶしたような顔で歩いている。妙な歩き方だ。必要以上に身体が上下する。普通に歩いているのに、スキップしているように見える。

 目の前に、えらくごっつい身体をした男が仁王立ちのような感じで立っていた。柔道の有段者のようにも見える。こういうヤツとは絶対に喧嘩したくない。
 その男の脇を浪内がすり抜けるようにしてやってきた。

「どうもすいません」
 いかにも作ったような笑顔で浪内が言った、そのとき──。

 発車と同時に、浪内の後ろで仁王立ちになっている男が、いきなりぶっ倒れた。
「…………」
 安江は、驚いて倒れている男を凝視した。

 死んだ──?

 ついそう思った。
 しかし、死んではいなかった。
 男は、のっそりと立ち上がると、また先ほどと同じように電車の進行方向の逆を向いて仁王立ちになった。


 
     舟山  牧課長   浪内 
    ごっつい
身体を
した男

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