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 24:11 新橋駅
 牧 百合子
(まき ゆりこ)


     安江は、口の端を細かく震わせながら、素知らぬふうを装っている。追いつめられた表情の舟山の反応が楽しくて仕方ないらしい。

 安江も安江だし、舟山も舟山だ。
 やってられない……。

 やめたはずのタバコが、急に吸いたくなった。
 タバコは、麻理がおなかにいるときにやめた。やめることに苦痛はなかった。1日せいぜい4、5本というところで、もともとそんなに吸ってはいなかったけれど、そもそも妊娠してから吸いたいという気持ちすら起こらなくなってしまったのだ。

 腹が立ったのは、義母の嫌味のほうだった。
「大事な身体なんだから、こんなものはいりませんね」
 と、義母は棚の上に置いてあったマイルドセブンの箱を屑籠に放り込んだ。それは、すでに百合子がタバコをやめてしまった後のことだった。
「タバコをくわえて仕事するなんて、人様に見せられる格好じゃありませんよ」

 なにを言っているんだろうと、百合子は思った。
「……それ、私のことをおっしゃってるんですか?」
「他にだれかいるかしら?」
「私、仕事中にタバコを吸ったことなんて一度もありませんけど」
「どうですかね」
 義母は、フン、と鼻を鳴らすようにしてキッチンへ入っていった。

「2番線に電車が参ります。参ります電車、浅草行の最終電車です──」
 アナウンスに、百合子は顔を上げた。
 なんとなくよみがえった記憶に、また腹が立ってきた。

「百合子さん、それで、会社はいつまでなの?」
 屑籠に放り込んだタバコの箱を、さらに見せつけるようにしてゴミ袋へ詰め直しながら義母は訊いた。普段は、ゴミ袋なんてさわりもしない義母が、だ。
「いつまで……って」
「いつやめるの?」
 驚いて義母を見返した。

「私……仕事辞めるつもりなんてないですけど」
「なにを言ってるの。そんな無責任なことじゃだめですよ」
 信じられない言葉だった。
「……仕事を途中で放り出すのは無責任じゃないんですか?」
「呆れた人だわね。そんな軽い気持ちで赤ちゃんを産むつもりなの」

 この人とは一緒に住めないと思い、幸彦にそれを訴えたが、彼の言った言葉は「申し訳ない。こらえてくれ」だった。
「それにさあ、オフクロいてくれたほうが子供見てもらえるから、そのほうがいいだろう。聞いた話だと、いま、保育園とかなかなか入れないって言うしさ」
 その夫の言葉にも、そのときは腹が立った。

「だけど、あれですね」と安江が、百合子に言った。「考えようでは、なかなかいいことかもしれないですね」
 意味がわからず、百合子は安江を振り返った。
「なにが?」
「いえ、これが縁談がまとまってですよ、ウチの女の子とアサカネの常務令息が結婚と言うことになれば、契約はまとまる、結婚もまとまる──いいことずくめってことになりますよね。めでたいじゃないですか」

 ホームの右手から、電車の音が大きく響いてきた。
 ケラケラと笑っている安江から、百合子は入線する電車のほうへ目を向けた。

 まるで子供みたいな人だと、百合子は安江のことを思った。安江が舟山にしていることは、小学生か中学生レベルのいじめだ。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
 しかし、こんな馬鹿げたことが、人間関係を決定していってしまう。仕事に関わらない限り、部下の行動には口を出すまいと思ってはいても、こんな言葉を聞かされると、どうにもやりきれなくなってくる。

 電車が停まり、ドアが開いた。
 気になって、ホームの端へ目をやった。浪内は、どうやら電話を終えたらしい。疲れたような表情で、こちらへ足を速めていた。

 ドアから次々に客が降りてくる。
「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」
 降りてくる客の脇をすり抜けるようにして、安江が電車に乗り込んだ。百合子は、客が終わるのを待って、ドアをくぐった。

 手前のシートに安江が腰を下ろしていた。必然的に、その隣へ百合子が座ることになった。考え込んだままの表情で、舟山は百合子の右に腰掛ける。安江の言ったことが、彼にはかなり堪えているようだった。

 義母に産まれてくる子供の面倒を見てもらうのはいやだった。いやではあったが、仕事を辞めて育児に専念できるような状況でもなかった。
 幸彦が言う通りの格好に、結局のところ落ち着くしかなかった。いやだと思いながら、麻理の世話を義母に頼んでいる。そんな自分も情けなかった。

 こちらへ向かってくる浪内の姿が目に入った。
 彼もまた、なにか問題を抱えているようだった。電話の相手は、たぶん奥さんだろう。結婚したのは2、3年前だったと思うから、そろそろいろいろ問題も出てくる時期だ。いくら仲が良くても、一緒に生活すれば様々な行き違いも生じてくる。いや、愛していればいるほど、相手への期待や信頼も高まるから、よけい不満も大きくなるのだろう。

 人と人って、めんどくさい……。

「どうも、すいません」
 まるで泣き出しそうな情けない笑顔で、目の前にやってきた浪内が百合子に頭を下げた。
 そのとき、突然、彼のすぐ後ろで、動き出した電車に押されるようにして、男の乗客が床に倒れ込んだ。

「…………」

 百合子は、思わず口を押さえながら倒れた乗客を凝視した。
 その男は、床から起きあがり、直立姿勢のような不自然な格好で立った。その顔には、床の汚れがついている。
 どこかおかしいんじゃないか、この人……と、百合子はとっさに思った。


 
     安江   舟山   浪内 
    男の乗客

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