前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 松尾昇
(まつお のぼる)


     美佳にそっくりな女性の写真を持って小枝に来た客──。
 その客は、ずっと写真の女性を探していた。

 なんだろう?
 でも、やよいは、その写真の女性の名前は早川美佳ではなかったと言った。名前が違うなら、当然、写真の女性は美佳ではない。
 そっくりというのは、どの程度似ていたということなのだろう? 少なくとも、やよいがどこかで会ったことがあると思うほど似ていたということなのだ。

 ──お話しできるようなことじゃないんです。

 なんだろう?

「松尾さんはご存知ですけど」と、やよいが言って、松尾は彼女を見返した。「ウチのお店ってよく言えば庶民的、普通に言ったら格下の飲み屋さんじゃないですか」
「…………」
 なんの話なんだか、よくわからなかった。そんな店を接客に使っている松尾に皮肉を言っているのかとも思ったが、そういうことでもないらしい。どうして、いきなりそんな話をし始めたのだ?

「だから、お客さんもそれなりの方たちなわけですよ。なあんて、言ったら叱られちゃいますけどね。だからお客さんの愚痴を聞いてあげるのも大切な仕事なんですよね。さっき言った早川さんに似た方の写真を持って来られたお客さんも、なんだかかなり問題を抱えてた方だったみたいなんですよ」
 やっぱりよくわからない。
「問題……って?」
 訊き返すと、やよいはちょっと肩をすくめてみせた。
「その写真の人を探しているのも、騙されちゃったってことらしいんですね」
「騙された?」

 やよいは松尾にうなずいた。
 ちょうどそのとき、電車が次の駅に滑り込んだ。窓からホームの照明が青白く差し込んできた。

「お金を騙し取られたんですって」
 やよいの言った言葉に、松尾は彼女を見返した。
「お金を……」

 お金を、騙し取られた──。
 その客は、金を騙し取られ、それを取り戻すために女性の写真を持って探し歩いていたということだ。
 なんとなく、頭がぼんやりしてきた。

「ちょっとよろしいですか?」
 と、美佳が言い、松尾は彼女に目を返した。
 先ほど床にぶっ倒れた男が後ろ側のドアへ歩き始め、美佳は続ける言葉を待った。男の歩き方がぎこちないように見えた。なんでもないような顔をしていたが、さっきぶっ倒れたことで足にきているのかもしれない。

「ごめんなさい」と、やよいが松尾を越えて、美佳に言った。「なんでしょう?」
 美佳が、ええ、というようにうなずき、ひとつため息をついた。
「どういう意味でおっしゃったのか、よくわかりませんけど、ちょっと失礼なんじゃありません?」
「は?」
 やよいが、面食らったように訊き返した。

 とにかく、美佳とやよいに挟まれ、その2人が話をしている。口を挟もうにも、松尾には何をどう言えばいいのかさえわからない。

「私に似た写真の人が、お店のお客さんのお金を騙し取ったなんて、どういう意味でおっしゃってるんでしょう?」
 その美佳の語気が、いままで聞いたこともないような強さを持っていたのが、松尾には意外だった。
「あ、ごめんなさい。思い出したものだから、ついお話ししちゃって。そうですよね、失礼しました」
 さすがに言い過ぎたと思ったのだろう、やよいが美佳に謝った。しかし、美佳には我慢ができなかったらしい。
「私がその写真の女だっておっしゃりたいの?」
 美佳がなじるように言った。やよいは眼を見開いて「そんな……」と、首を振った。

「まさか。じゃあ……あなただったんですか? あの写真」
 そのやよいの言葉に、思わず松尾は、え? と、やよいを見返した。
 そんなこと、美佳は言ってないじゃないか……と言おうとしたが、美佳を振り返ってその言葉を呑み込んだ。

 美佳も眼を見開いていた。
 美しい顔が、違って見えた。彼女は、何度か呼吸を整えるようにして、詰まったような声で言った。
「……なにを、言うんですか。ほんとに失礼な人だわ」
 その言葉の調子も、どこかおかしかった。いつもの美佳ではないように思えた。

「美佳さん……」
 言うと、美佳は松尾のほうへ目を返してきた。
「…………」
 不意に、固まったようになっていた美佳の表情が松尾の前で崩れた。
「この人の言うこと」と、美佳が責めるような声で言った。「松尾さんは信じておられるんですか?」
「信じるも信じないも……」松尾は、大きく首を振った。「だって、彼女は写真の人が美佳さんだなんて言ってるわけじゃないんですから」
「…………」

 松尾を見る美佳の眼が、どこか冷たい光を持っているように感じた。こんな眼で、見つめられたのは初めてだった。
 松尾は、さらに狼狽した。
 なにがどうなってしまったのか、まったくわからなかった。

 今日は、大事な日だったのだ。
 美佳にプロポーズをした。一世一代の大きな賭だった。なのに……。
 なんで、こんなことになってるんだ。

 いきなり、後ろのホームで、「キャーッ!」という女性の声が上がった。
 やよいがシートから立ち上がり、窓の向こうを見て眼を丸くしている。松尾も後ろを振り返り、そして度肝を抜かれた。反射的にシートから立って、窓の外を見つめた。

 ホームに立っている男の腰から上が、大きく炎を吹き出しながら燃え上がっていた。
「…………」
 なにか、現実とは思えなかった。アトラクションなのではないかとさえ思った。
 男は、叫びながらホームの上をゴロゴロと転がっている。転がっても、火はなかなか消えそうになかった。

「どうしたんだ、あれ……」
 つい、思ったことがそのまま口から出た。
 それに答えてくれる人は誰もいなかった。

 あっ、と思って松尾は隣を見た。
「────」
 美佳がいなくなっていた。
 車内に、目を泳がせる。
「あ、美佳さん──」
 騒然とした車内を、美佳が最前部へ向かってゆっくりと歩いていた。
 呼び止めようとした松尾の腕を、後ろからやよいがつかんだ。
 振り返ると、やよいは松尾を見つめながら首を振っていた。

「まだ、松尾さんに被害はないんでしょう?」
 やよいの言葉に、松尾は思わず唾を呑み込んだ。
「じゃあ……」と、やよいを凝視した。「美佳さんは、ほんとに……?」
 やよいは、車両の前方を指さした。

 思わず、そちらへ目を向ける。
 美佳は、松尾に背を向け、ゆっくりと歩き続けている。

「なにもなければ、逃げることはないでしょ?」
 やよいが、ささやくように言った。
 松尾は、歩き去る美佳の背中から目が離せなかった。
「僕を騙すために……?」

 嘘だ、と松尾は思った。
 美佳は、そんな人じゃない。だって、僕を騙すつもりなら、プロポーズを断るわけがないじゃないか。彼女は、プロポーズした途端、お別れしましょう、と言い出したのだ。

「なんで? なんでそんなこと……」
 ポケットに手を入れて、指輪のケースを取り出した。そのふたを開け、ダイヤモンドの指輪をつまみ上げた。

 だって……美佳は、この指輪を受け取ってくれなかったのだ。

 ──お話しできるようなことじゃないんです。

 不意に、ダイヤモンドが大きく輝いた。
 その輝きは、松尾の視界をすべて真っ白に覆い尽くした。鼓膜を破るような爆発音とともに、電車の窓ガラスが砕け散った。
 なにかを叫んだような気がしたが、松尾はその自分の声さえ聞こえなかった。松尾のすべての意識はそこで途絶えた。


 
     美佳  やよい  床に
ぶっ倒れた男
    ホームに
立ってい
る男
 

   前の時刻 ……