前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 桜井奈緒子
(さくらい なおこ)


     見つめてくる弥生の視線から、奈緒子はまた膝の上へ目を落とした。睨み返すのも不自然だろうし、微笑んでみても嘘っぽい。それ以外に視線の持っていきようはなかった。

 以前カモにした男が奈緒子を捜していることは充分にあり得る。男だけではなく、警察だって奈緒子を追っているだろう。
 しかし、獲物の選択には慎重すぎるほどの神経を使ってきたはずなのだ。これまでのターゲットはすべて地方だった。そのターゲットの誰かが、虎ノ門を歩いている奈緒子を目撃した……?

「松尾さんはご存知ですけど」
 と、弥生が言った。奈緒子は目を上げて、彼女を見た。
「ウチのお店ってよく言えば庶民的、普通に言ったら格下の飲み屋さんじゃないですか」
 何を言いたいのだろうと、奈緒子は弥生を見つめた。
「だから、お客さんもそれなりの方たちなわけですよ。なあんて、言ったら叱られちゃいますけどね。だからお客さんの愚痴を聞いてあげるのも大切な仕事なんですよね。さっき言った早川さんに似た方の写真を持って来られたお客さんも、なんだかかなり問題を抱えてた方だったみたいなんですよ」

 不安が、さらに大きくなった。
 ほんの一瞬でも、この弥生を利用できないかと考えたのは大きな間違いだった。

「問題……って?」
 松尾が、やはり不安そうな声で、弥生に訊き返した。
「その写真の人を探しているのも、騙されちゃったってことらしいんですね」
「騙された?」

「…………」
 奈緒子は奥歯を噛みしめた。
 最悪の状況だった。こんな状況に遭遇したのは、この稼業をするようになって初めてのことだった。
 電車の窓から光が入ってきた。銀座駅に到着したのだ。

「お金を騙し取られたんですって」
「お金を……」
 弥生の言葉に、松尾が呟くように言った。

 半年以上も準備に時間をかけた──。
 そのすべてが、この薄汚い水商売女のために無駄になってしまった。もちろん、松尾は、まだ奈緒子を疑ってはいないだろう。しかし、疑い始めてからでは遅いのだ……。

「ちょっとよろしいですか?」
 奈緒子は、退却の準備の時間を稼ぐために、弥生を見据えながら言った。
 ところが弥生は、一度は奈緒子のほうへ寄越した視線を、すっと脇へそらせた。先ほど床に倒れた男が、車両の後ろへ向かって歩いていく。その男を目で追っていた。

 明らかに、奈緒子の機先を制するためにやっている。
 この弥生という女……そうとうのくわせものだ。

「ごめんなさい」と、ようやく弥生が奈緒子に目を返してきた。「なんでしょう?」
 奈緒子は、うなずきながら小さく息を吐き出した。
「どういう意味でおっしゃったのか、よくわかりませんけど」と、奈緒子は弥生を睨みつけた。「ちょっと失礼なんじゃありません?」

 は? と言うように、弥生が眼を瞬いた。
 松尾のほうは、もうどうしたらいいかわからないといった表情で、奈緒子と弥生を見比べている。

「私に似た写真の人が、お店のお客さんのお金を騙し取ったなんて、どういう意味でおっしゃってるんでしょう?」
「あ、ごめんなさい」と、慌てたような声を作って弥生が首を振った。「思い出したものだから、ついお話ししちゃって。そうですよね、失礼しました」
「私がその写真の女だっておっしゃりたいの?」
「そんな……」
 と、弥生は眼を見開いて奈緒子を見つめた。
 しかし、その次に弥生の口から発せられた言葉は、とんでもないものだった。

「まさか。じゃあ……あなただったんですか? あの写真」

「…………」
 不覚にも、奈緒子は喉を詰まらせた。
 とっさに、次の言葉が出てこなかった。やっと口に出したものは、自分で考えても最悪なセリフだった。
「……なにを、言うんですか。ほんとに失礼な人だわ」

 すぐにでも、この場から退却したかった。
 もう、すべてをあきらめるしかない。

「美佳さん……」
 と、松尾が奈緒子を見つめたまま言った。
 その松尾に目を返し、自分の表情が硬くなっているのに気づいた。首を振りながら、松尾を見返した。悲しい表情を作ろうとしたが、うまくいったとは思えなかった。

「この人の言うこと、松尾さんは信じておられるんですか?」
 言うと、松尾は激しく首を振った。
「信じるも信じないも……だって、彼女は写真の人が美佳さんだなんて言ってるわけじゃないんですから」
「…………」

 ほんとに鈍くさい男だと、奈緒子は松尾を見つめた。
 まあ、今は、信じられないだろうし、信じたくもないだろう。しかし、気がつくのは時間の問題だ。

 そのとき、奈緒子が座っているシートの後方で「キャーッ!」という悲鳴が上がった。
「…………」
 とっさに振り返った奈緒子の眼に、信じられないような光景が飛び込んできた。

 スーツ姿の男が、上半身を炎に包まれていた──。
 松尾と弥生がシートから立ち上がり、奈緒子も席を立ってホームを見つめた。

 焼身自殺……?

 なんだかわけがわからなかった。
 男は、火がついた身体のまま、ホームを転げ回っている。

 今しかない。

 奈緒子は、2人に気づかれないように、静かに後ずさりした。
 ゆっくりと、静かに、身体の向きを変え、左手のドアへ向かう。すぐ目の前にもドアはあるが、そこではすぐに2人の視界に入ってしまう。
 焦る気持ちを抑え、奈緒子はことさらゆっくりと歩いた。

 ホームで騒ぎが起こってくれたのは、実に幸運だった。
 まだ騒ぎが続いている。できれば、ずっと騒いでいてほしいと奈緒子は思った。

「あ、美佳さん──」
 と、後ろで呼ぶ松尾の声が聞こえ、奈緒子は一瞬眼を閉じた。
 しかし、そのまま振り返らずに奈緒子は足を進めた。ゆっくりと、自然に、そのまま一番先頭のドアに向かって歩き続ける。

 半年の苦労が水の泡になった……。

 でも、引き際はわきまえるべきだ。
 準備には、相当の資金も投じた。しかし、それを惜しんで無理矢理に計画を進めたら、なにもかもが消えてしまう。失敗をこれ以上大きくするわけにはいかない。

 早川美佳の名義で借りているアパートへ戻るべきかどうか、奈緒子はそれを考えていた。

 いや、戻らないほうがいいだろう。
 このまま、早川美佳を消してしまったほうがいい。あの部屋には、もともと残してまずいようなものは1つも置いていない。
 このまま、消えるのだ。

 ここは銀座だ。
 地上に出れば、タクシーはいくらでも拾える。向かうべきは、やはり東京駅だろう。北へ逃げるか、南へ逃げるか。いったん大阪へ出て、そのまま香港にでも飛ぶか……。

 奈緒子は、振り返らなかった。
 車両の一番先頭のドアから、ゆっくりと足をホームへ下ろした。

 その瞬間、ホームが目映い光に包まれた──。
 そして、激しい振動と爆発音とともに、奈緒子の身体は出てきたばかりの車両の中へはじき飛ばされた。同時に、奈緒子は意識を失った。
 消えようとしていた奈緒子は、その瞬間、完全にこの世から消え去ることになった。


 
     弥生   松尾  先ほど床
に倒れた
  
    スーツ姿
の男
  

   前の時刻 ……