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新井素子『この橋をわたって』第一篇 全文公開 試し読み

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Image橋を、架ける

 どうっ。
 どうどうどう、どうどうどうどう。
 流れる、水音。
 それは、巨大な河だった。流れは、急だ。
 確かに向こう岸は見える。かすかに、見える。向こう岸に何かがいることだって、かろうじてわかる。だが、あちら側に“何か”がいる時に、こっちで、子供だった俺が思いっきり手を振っても、向こう岸の相手には変化がない。俺が、両手をひろげてまるで旋回せんかいするかのような大仰な身振りをすると、やっと、向こう岸の相手も何か動いているのが判った。
 んで、俺には判る。この河は、巨大すぎるのだ。あっちだって、こっちのことを無視している訳じゃない、ただ、手を振ったくらいじゃ、あっちにはよく見えないのだ。あるいは、向こうだって、こっちに手を振っていたのかも知れない。だが、この距離では、それは俺にはよく見えない。というか、誰にだって見えないだろう。そういうことなんだと思う。
 あの河の向こうにもヒトがいるらしい。それは、かなり昔から、俺達の村に伝わっていた言い伝えだった。
 だが、とてもじゃないけれどこの河は、泳いでわたることができるものではなかった。
 それに挑戦した男は何人もいる。全員が、流されて、死んだ。
 そして時間がたち……俺は、村で一番の男になった。力較べで、俺に勝てる男はいない。俺は、自分の女を選べる。自分の子供を作ることができる。
 その時。俺は、ちょっとした思いつきを実行してみたのだ。
 女を選ぶ前に、自分の子供を作る前に。できるだけ大きな、でも、自分が投げることが可能な大きさの石を選び……それを、思いっきり、河に、投げてみた。
 石は、大人二人分くらいの間を飛んで、そこに鎮座した。巨大な石だったから、河の流れがかなりきつくても、それでも、その石は、ずっと、そこに居続けた。

Image

 前々代の首長が投げた石。その首長の名前がミワキだったから、ミワキ岩と呼ばれている石。それを見ながら、私は思う。
 過去の男達は、みんな、成人の儀式を終えると、この河に石を投げていた。いつの間にかそんな習慣ができた。ミワキ岩を越すところまで石を投げることができれば、それは最高の成人の証なのだが、過去、そんな男は一人もおらず、とにかく、ミワキ岩にできるだけ近い処まで石を飛ばせるように。ミワキ岩に石が載れば最高だし、ミワキ岩への近さで、その男の“成人”としての格が決まる。
 かなり長いことこの習慣が続いたので、ミワキ岩のあたりは、岩礁ができてしまっている。
 私は、ミワキ岩にまったく石が届かなかったにもかかわらず、(その上、私が投げた石が軽すぎたためか、子供ができる前にその石は河の流れにより転がってしまった、まったく情けない男であったにもかかわらず)、それでも首長になった、最初の男だ。
 というのは。只今。うちの部族は、そんなことをしている場合ではないのである。
 病が蔓延している。
 私がやらなければいけないのは、この病の押さえ込みだ。
 私は、とても酷い政策を提案した。死んだ勇者の肉を食べてはいけない。勇者の血をんでもいけない。
 ……ヒトは、勇者の肉や勇者の血から、その勇気と力を受け継ぐ。この事実を鑑みると、これはもうほぼあり得ない話なのだが……どう考えても、病で死んだ勇者の血や肉を摂取してしまうと、病になることが多いのだ。多すぎるのだ。そこで、それの禁止を訴え、当然のことながら村八分に近い状態になり……だが、私が言ったことを守った人からは、不思議な程、病がでなかった。それで、初めて、そもそも河に石すら残せなかった身で首長となった。
 だが。私によい気持ちを持っていない男達の存在を、私は常に感じている。当たり前だ、ミワキ岩に投げた石が届かないはおろか、河に石すら残せなかったのだ、私が首長で納得できる男がこの村にそんなにいるはずがない。今は、病のことがあるから、私の言うことに従ってくれているだけで、病が収束すれば、私は間違いなく殺されるだろう。
 そこで、私は、ふっと思いついたことを言ってみた。
「ミワキ岩まで、木を渡そうか」
 河岸から、ミワキ岩までは、大人二人分ちょっとの距離だ。ならば、この間に、木を渡すことができる筈。一本では細すぎるが、何本かまとめて渡せば。こうすれば……誰でも、ミワキ岩からの景色を、見ることができる。
 今、成人になった男達は、ミワキ岩に石を投げた後、ミワキ岩礁まで泳いでわたるのが常になっている。そこまでならば、何とか泳げるのだ。そして、そこで、岩礁に上り、新しい景色を見る。
 だが、木が渡っていれば。この景色を、女も、子供も、すでにミワキ岩礁まで泳ぐことができなくなった老人達にも、見せることができる。
 ああ、そうだ、私は……自分が殺される前に、この景色をみんなに見て欲しかったのだ。
 これは、熱狂的な賛意で迎えられた。だから私はもうちょっと欲をかく。
「アダチ。おまえは、私の村の最高の男だ。もっとも強い」
 アダチは、間違いなく私を殺そうとしている最右翼の存在だ。
「おまえは、木を渡されて行ったミワキ岩から、できる限り最も大きな石を投げるといい。次からは、おまえが投げた石が、みんなの目標になるだろう」
 アダチもこれに熱狂した。何故なぜなら、この話に乗れば、次からは村の男達の成人儀式は、アダチ岩を目指すことになるのだから。
 こうして私は、いつの間にか、何とか、私を殺そうとする勢力をいなすことができた。

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「あちら岸が見える……」
 ソイエ岩にまで渡された木を辿ってきたあたしは、自分がやるべき仕事が一段落した後で、そんなことを思う。
 もう、河のあちら側が、こちら側と同じくらいに、見える。河の半分、あたし達は、渡ってきてしまったのだ。
 思いっきり石を投げる、投げ続ける、その投げ続けた処まで木を架ける、そこからまた石を投げる、岩礁ができたくらいで次の木を架ける、そこからまた石を投げる、そんなことを繰り返して。
 そして、あたしがここに立つと、河のあちら側で、綺麗な色の布がひらひらしているのがかすかに見える。それが何だかは判らないんだけれど。
 ミワキ首長、アダチ首長、サハジ首長……そしてソイエ首長まで、過去の歴代の首長達が聞いたら驚くだろうな、只今の首長は、あたしだ。ユワナ。女である。(ところで、最初に岩礁に木を架けた首長の名前は判っていない。あたし達の村の歴史は、あくまで岩の名前で覚えられているので、遠くに石を投げられなかった人の名は、残らないのだ。これ、すっごく莫迦ばかな話だよね。)
 ある時期から、うちの村の首長の選定方法は、「どこまで石を飛ばすことができるのか」になった。この選定方法には、女が参加する権利は、最初っからなかった。その理屈は、とても簡単で、“男は女より力が強い、遠くまで石を投げられるのは男だ、故に、男は女より優れている、女がこれに参加したって意味がない”。
 うん、この前半が事実であることを、あたしは否定しない。実際に、どう考えても、男の方が女より、普通、力が強いもんねー。
 逆に言うと、だから、あたしは、簡単に首長になれてしまった。
 だって、男共の理屈で言えば、ソイエ岩から最も遠くまで最も重い石を飛ばすことができたヒトが、絶対的に次の首長なんだもん。そんなの、簡単なんだもん。だってあのさあ、重い石を、とにかく遠くまで飛ばせばいいだけなんでしょ?
 子供達が遊んでいるおもちゃに、“ぎったんばっこん”ってものがある。石の上に長い板を渡して、あっちとこっちに子供が乗るの。あれの応用。これを使えば、かなり小さな力で、とんでもなく重いものを、簡単にすっとんでいかせることができるのだ。中心になっている石の位置を変えればいいだけ。で、男共は、そもそも子供の遊びなんか知らない。そんであたしは、何とかソイエ岩まで“ぎったんばっこん”を持ってきて、したら、ま、あとは楽勝だよねー。あたしが出した飛距離を自力で越える男なんて、まず、いないだろうと思う。(いや、勿論もちろん、男が“ぎったんばっこん”を使ったら、それでおしまいなんだけどね。けど、今だって、あたしのことをまるで蛆虫を見るような目で見ている男共は、絶対、その、何が何だか判らないプライドにかけて、それはやらないと思うのよ。)
 ここまでして。あたしが首長になりたかったのには、事情がある。
 男共はっ。只今現在のうちの村が直面している危機を、まったく理解していない。
 ここしばらく。どんだけ雨期に出水があったと思うのだ。その度に、うちの村がどんなに危機的な状況になったのか、ほんっとに判っているのか、うちの長老や前の首長や、とにかくあの莫迦男共はっ!
 判っている訳がない。出水が起きる度に、子供や老人を守る為に女達がどんな苦労をしているのか、その後、出水のせいで、山菜や茸や木の実の収穫が少なくなってしまったら……出水を乗り越えた後、女がどれ程家族を食べさせる為に苦労するか、こいつらは、まったく、判っていないっ! のほほんと猟に出て、「獲物は減っていないのだから、あとは女の仕事だ」って言うだけなのだ。
 莫迦野郎っ! 出水の原因なんて、判りきっているではないかっ! あの、岩礁だよっ! あれが、変な風に河をせき止めているから、雨が降ると出水になる。
 女はみんな、それが判っている。感覚で判っている。なのに、男には、どれだけ言葉を費やしても、それを理解してもらえない。
 だから……あたしは、首長になることにした。なるしかないのだ。そして、あたしが首長になって……せめて、おのおのの岩礁の間にある、小さな石、それを全部、手作業で除きたいと思った。少しでもスムーズに河が流れるようにしたいと思った。もともと、河で泳ぎ、河に潜り、貝や海草を取るのは女の仕事、だから、この仕事の為の人手は、“ぎったんばっこん”導入時より前に確保できていた。
 本当のことを言えば。できれば、岩礁、それ自体を全部撤去したいのだが……さすがに、それは、今の時点では、無理。と言うか、そんなこと、とても言えない。ソイエ岩までやってきて、そこで一番遠くまで石を飛ばすことができ、それによって首長になり、岩礁間の整理を何とかやったあたしには……今までの岩礁の権威によって首長になったあたしには、さすがに、岩礁それ自体の撤去は、言い出せなくて……。
 次の時代、ユワナ岩って呼ばれるに違いない大石を横目で見ながら、あたしはため息をつく。
 すると、そんなあたしの視界にうつるのは、河の向こう岸で、くるくると舞っているさまざまな色。
 あ、今、あたしには判った。あれ、あっち岸でヒトが手をひろげてさまざまな色の布を纏って、旋回しているんだな。何やってるんだろう。何でそんなことをやっているんだろう。
 これを見た瞬間。
 まったく別な思いが、あたしの心の中に起きた。
 あっち側に……ついてしまったら、一体全体、どうなるんだろう?
 くるくる回るさまざまな色。
 あの世界に、もし、つくことができたのなら……それは一体、どんなことになるんだろう……。

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 俺は、サタマ。
 そんで、俺のじっちゃんのじっちゃんのじっちゃんの……よく判らないんだが。俺は、ミワキの直系だ。と、少なくとも、俺のとうちゃんはそう言っていて、えっと、ということはその、じっちゃんもそう言っていて、じっちゃんのじっちゃんも……ああ、もう、よく判らんわっ!
 とにかく、俺は、ミワキの子孫なんだ。うちでは代々、「遠いじっちゃんのミワキが……」で始まる初代首長の話が、子供を寝かす時のお話になっていた。
 そして、只今、ネタカ岩の上に立つ俺は、ミワキの直系の子孫であり、同時に、うちの村の首長だ。
 今では、対岸の人達が、よく見える。というより前に、実は、今となってしまえば……俺達は、この、ネタカ岩から、対岸まで、泳いでいけるんではないかと思う。水流の具合が判らないから断言はできないが、でも、それ程、近くまで、俺達は来てしまった。
 今、目の前には、サタマ岩が見えるのだが、ただ、対岸に渡る為だけには、ネタカ岩から、サタマ岩まで、木を渡す必要もないだろう、もう、対岸は、そんな距離だ。
 そして、そこでは、まるで群舞のように、統制のとれた感じで、多くの人達が、くるくるまわって、両手を伸ばして、旋回している。
 俺達家族に伝わっている話では、ミワキは、ものすごく目がいい人だったらしいのだ。どんな遠くを飛んでいる鳥でも、どんな些細な梢の揺れでも、全部、見ることができる人。そんな人が、対岸に目をやった時、そこで動くものがあった時、それでも、それが何だかまったく判らなかった。だから、自分が、大きく手をひろげて、旋回してみた。そうしたら、対岸の相手も、何か、それに応えてくれたらしいのだ。
 以降。さまざまな石が、この河に投じられ、ユワナ岩の頃から、相手が綺麗な色を伴って旋回していることが確認でき……今は、もう、はっきりと見える。対岸の相手は、おそらく、できるだけの色の布を纏って、両手をひろげて、旋回してくれている。
 判らない。
 俺達は、自分の儀式として、成人が石を河に投げていた。
 できた岩礁の間を木で繋いだ。
 対岸の人達が何を考えていたのかまったく判らないけれど、対岸の人達は、そういう儀式が進むごとに、大きく旋回して、のち、さまざまな色の布を纏うようになり、今では舞踏だとしか思えない所作を示してくれている。
 判らない。
 これで、俺達が対岸に辿り着いてしまったら、どんなことが起きるのか、それはまったく判らない。
 だが。
 俺、ちょっと息が苦しいかも知れない。
 でも、それは、不快なものではない。
 何だろうこれ。
 どきどき、わくわく……?

 俺は、首長として、絶対に、最初にあちらへと行く。場合によっては、ここから泳ぐべきなのか?
 いずれにしても、最初に行くのが首長の務めだ。
 そして、あちらに辿り着いたら……何が起きるのか、それはまったく判らないのだけれど……おそらくは。

 おそらくは。
 きっと。

 何か、素晴らしいことが、ある。

 そう、俺は、信じている。

〈FIN〉

続きは本書でお楽しみください。

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ここはあったかい異世界。ほのかに、はるかと、つながっている。独自の小説世界を創り続けて四十年、最新作八篇を収録する、味わい豊かなアラカルト作品集。

 『この橋をわたって』新井素子/著
2019年4月25日発売 [定価]1500円+税