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 page 2占 時追町の卜い家〔 page 3/3 〕

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 三

 それでも伊助は訪ねてくるだろう、と桐子はどこかで高を括っていた。あれほど私を頼みにしていた男だもの、急に縁を切れるはずもない、と。が、この日を境に伊助はぱったり顔を見せなくなった。五日が過ぎても、十日が経っても音沙汰がない。桐子は不安でたまらず、七月半ばの夕刻、彼の長屋を訪ねたのだ。さほど待たずに道具箱を担いだ伊助が現れたが、彼は門口に佇む桐子をひと目見るなり、慳貪けんどんに眉をひそめた。この間はごめんなさい、と頭を下げた桐子と目も合わさず、
「もういいよ。来ないでって言ったのは、そっちだろ」
 伊助はそれだけ言って、玄関戸をぴしゃりと閉ざしてしまった。
 なんて身勝手な男だろう、少しも話を聞かないなんて。自分はこっちの都合などお構いなしに訪ねてきては、さんざん悩みを垂れ流してきたというのに。血が逆巻いたが、それも長くは続かなかった。布団に潜る頃には、ちゃんと食事はしているのだろうか、竈が壊れているから煮炊きもままならないんじゃないか、誰にも悩みを打ち明けられずに苦しんでいるんじゃあないか、と伊助を案じる気持ちが黒雲のように湧いてくるのだ。
 ――私は、ひどいことをしてしまった。
 桐子の中には自責の念だけが残った。寝ても覚めても重苦しい。仕事も手につかない。
 すっかり行き詰まって、気付けば再び時追町に向かっていた。路地奥に灯った明かり目指して足を速め、敷居をまたぐや玄関で鈴を鳴らす。と、以前と同様丸髷の女が現れて、希望の八卦見を訊いてきたから即座に汀心の名を出すと、今回は奥の座敷ではなく玄関脇の大部屋に通された。中には四人の女が顔をうつむけて座っている。
「汀心はただいま鑑定中ですので、こちらでお待ちいただけますか?」
 女にそう囁かれて、
「あの、みなさん、汀心さんをお待ちでらっしゃるんですか」
 と、桐子は声を落として訊いた。女は静かにかぶりを振る。
「この館には部屋が八つありまして、交代で八卦見が控えております。占術もそれぞれ違いまして、お客様のお悩みにあった方にお入りいただいております。ここでお待ちの方もみなさん、異なる八卦見にお入りになられます」
 漠とした答えを残して女が部屋を出て行ってしまってから、他にどんな八卦見が控えているのだろうと、興味が芽吹いた。順番待ちの女たちに尋ねたかったが、みなかたくなに閉ざしていて、話しかけられる雰囲気にはない。そのうちに、ひとり、またひとりと呼ばれて退室し、代わりに新たな客が通されるといった案配で、桐子もただ押し黙って、そこにいるよりなかったのだ。
 小一時間ほど待たされた。呼ばれて汀心の部屋に入る。開口一番「先日はありがとうございました」と礼を述べたのだが、汀心は桐子を覚えておらぬ様子で、「今日はどうなさいました」と淡々と決まり文句を唱えたのだった。桐子は伊助と別れてしまった経緯を語り、彼が今、どういった心持ちでいるか知りたいのだと、直截ちょくせつに問うた。汀心がまた、なにかを見澄ますように桐子の背後に目を凝らす。伊助はけっして心変わりしていない。少しばかりへそを曲げているだけだ。もう少しすればきっと、腹立ちも収まる。そう返事がくると、桐子は固く信じている。
「これは、うーん、界層がずれてしまってますね」
 しかし汀心は表情を険しくして、不吉なひと言を桐子に投げたのだ。
「この方、もう、あなたのほうは向いていません。なにか、彼の抱えている問題……そちらにだけ気持ちが行ってしまっています」
 地獄に蹴落とされたような心地であった。到底認められることではない。
「でもせんだっては、彼は私を好いている、とおっしゃったんですよ」
 詰め寄ったが、汀心はそのことを覚えていないのか、首を横に振るのである。
「そのときは、そうだったのでしょう。けれど今は、お心変わりをされてしまいました。この方の心は今、憂鬱の水でいっぱいです。あなたのことを思い出す余裕もなくなっているようです」
「……そんな、いい加減な」
 非難にも揺らがず汀心は続ける。
「人の心は常に変わっていきます。それは条理であって、ずっと同じところで止まっている方はどこにもおられない、ということです」
 そんな月並みな正論を聞きたくて、八卦見に相談しているわけではなかった。
「だったら、私はどうすればいいんです。どうすれば元に戻るんですか。その方法を教えてください」
 つい喧嘩腰になった。あくまで他人事だという汀心の涼しい顔がかんに障ったのだ。
「今は、なにをしても虚しい結果しか得られないでしょう。お相手の心が動く気配は視えません。会えるようになるとしても、相応に時が要るでしょう」
 口の中に溜まった唾を飲み下す。
「……それは、どのくらいです? どのくらいかかりますか?」
「そうですね、少なく見積もって半年。長ければ一年はかかるかもしれません」
 この日桐子は、汀心の部屋に二時間近くもいる羽目になった。伊助の心は自分にあり、さほど時もかからずによりが戻る――そんな見立てを引き出すために角度を変えて問い続けずにはいられなかったのだ。が、汀心の答えは一貫して希望とはかけ離れたものだった。お客様のご希望に添える鑑定でなくとも、私は視えたものをお伝えするよりありませんから、としまいに言い切られて、桐子の傷はかえって深くなった。
 帰りしな、玄関口で告げられた占い代は、先だってとは比べものにならないほど高額だった。占いなんぞという得体の知れないものに、コツコツ仕事をして懸命に蓄えてきた金を使ってしまった、と桐子は蒼くなる。その上、それだけの代金を払っても、望みの答えを得られなかったのだ。不合理に打ちのめされた。一方で、このまま終わらせることはできない――そんな意地が頭をもたげ、翌日早々、桐子はまたぞろ時追町へ出向いたのである。
「汀心さんとは別の占いの方を」
 敷居をまたぐなり丸髷の女に告げた。無駄遣いを重ねることになる、と内心では危ぶんでいたが、
「お相手のお気持ちでしたら、天馬てんまという占い師もよろしいですよ」
 と、女に勧められると、鑑定を受けずに帰ることはできなかった。
 指示された松葉模様のふすまを開ける。卓の向こうに、娘らしさの残る女が座していた。こんなに若くてまともに占えるのだろうか、と不安を覚えたが、蓋を開ければ相談事への理解も早く、欧州のものだという占い札を切る手際もいい。その上、天馬は、
「この方のお心はちゃんとお客様にありますよ」
 卓上いっぱいに並べた札を見詰めて、桐子がもっとも欲していた言葉をすらりと口にしたのだ。
「あなたから突然拒まれてだいぶ気落ちしていますが、けっして深刻なご様子ではありません。すでに寂しさを感じてらっしゃいますから、しばらくしたら彼から歩み寄ってくるでしょう」
「しばらく、というとどのくらいでしょう?」
 前のめりに桐子が訊くと、天馬は再び札を切り、
「そうですね。十日ほどのちには元の通りになります。ご心配なさらずともよろしいですよ」
 と、自信に満ちた笑みを見せたのである。総身の力が抜けた。汀心は見誤ったのだ。天馬の言うことこそが確かなのだ。その晩は久方ぶりに深い眠りに落ちた。が、翌朝起きると、
 ――少し話がうま過ぎないだろうか。
 と、新たな疑心が芽を出していた。状況を冷静にかんがみれば、伊助を訪ねた折の頑なな拒みようからして、たった十日で態度が氷解するとは信じがたかった。
 ――単に客を慰めるために、天馬はおためごかしを吐いたのじゃないか。
 一旦そんな考えが浮かぶと、それこそが確からしく思われた。そうして桐子は再び、時追町に駆け込むことになる。「無駄遣い」という意識の歯止めは、いつしか取り払われてしまった。そうして、三日にあげず館の敷居をまたぎ、異なる八卦見に次々と同じ相談をぶつけるという突拍子もない行いに及んだのだった。
「彼は心の弱い人。些細なことでいつまでも思い悩みます。しかも、嫌な出来事を繰り返し思い返す癖があるのです。彼と一緒にいても、あなたの行く先は暗いですよ。このままだと振り回されてしまうだけです」
 と、忠告する八卦見があった。
「あなたへの気持ちは恋情というより同志に対するものに近いですね。彼の抱える厄介事を相談できる心強い相方といったところ。ですが、この方は頑固で人の意見を受け入れません。あなたに意見をいながら、それに従うことはないようです」
「彼の悩みに対して、あなたはただ聞くだけ、という姿勢を通してください。異論があっても口にしてはいけません。気位が高い方ですから、常に彼を立てるよう気をつけてください」
「この人は、とても身勝手。気持ちに常に波がある。根気強く物事に取り組むこともできません」
 伊助との仲を修復できるかどうかを占っているはずが、八卦見たちは一様に彼の人格を読み解いていく。戻れる時期も、桐子がとるべき態度も、見立てはまちまちであるのに、伊助の人となりについては至極似通った像が結ばれていることが桐子には気に掛かった。
 時追町から家に戻ると、忘れないうちに八卦見から言われたことを帳面に書き付けるのが習いとなった。夜深よぶかにそれを読み返し、彼らの発言で重なる部分に赤いペンで印をつけていく。日頃翻訳という、調べて比較して試して、もっとも原文にふさわしい表現を見付ける作業に勤しんでいる桐子にとって、こうした検証はお手のものであった。半月も通い詰めると、伊助という人物が鮮明にあぶり出されてくる。
 心が弱い、悲観主義、悩みを口にはするが人の意見は容れない、頑固、移り気、身勝手、根気がない、思い通りにいかないと苛立つ、感情の起伏が激しい――。
 帳面を睨んでいると、自分はなぜ伊助なんぞに執着しているのだろう、と首を傾げずにはいられなくなった。
「あなた方おふたりは深いご縁があります。だからいずれ戻りますよ」
 これも、ほとんどの八卦見たちに通じた見立てである。修復の手立てについては、「会いに行って直接許しを請うたほうがいい」「顔を合わせると揉めるから、手紙で謝罪するほうがいい」「今は静観して、ひと月ほど時期を置いて謝りに行くべき」「そっとしておけば、彼から歩み寄ってくる」と、枝分かれしたが、桐子の内では、向こうから歩み寄ってくれれば楽なのに、という横着な気持ちばかりが膨らんでいくのである。そうなると今度は、「彼のほうから歩み寄ってくる」との鑑定を少しでも多く引き出すために、足繁く時追町に向かう羽目になる。
 奇妙なのは、これほど通い詰めているのに、新たな八卦見が次から次へと現れて、いっこう途切れないことだった。ぜんたい何人抱えているのだろうと不審に思い、一度丸髷の女に訊いたのだが、
「どうですか。私も存じません。その日にお出になる八卦見を私は知らされるだけですので」
 と、不得要領ふとくようりょうな答えしか返ってこなかった。
「たくさんおられるのは結構なのですが」
 桐子は、胸に抱える不可解を思い切って口にした。
「同じことを視ていただいているのに、それぞれにお答えが違うところもあって。どれが本当なのか、なにを信じればいいのかわからないんです」
「占い師はそれぞれに視方が違います。私どもも日頃、同じものを見ていても、他人とは印象や感じ方が異なることがございますでしょう。それと一緒です」
 女は一切表情を変えず、恬淡てんたんと返した。
「でも、時期やとるべき行いなどの結果が違うとなると、私も動きようがなくて……」
「ですから」
 と、女は不意に顔を上げ、その目をひたと桐子の眉間に据えた。
「どの鑑定を信ずるか、それはあなたのお心次第になる、ということです」
 高飛車な物言いに、桐子は少しく憮然となる。
「私の心次第というなら、占いをする意味がございませんでしょう。お言葉ですけれど、真実はひとつのはずです。辿り着く未来は、一通りのはずなんです。その真実を見極められなければ、占いとはいえないと思うのですが」
「もちろん、どのお悩みも辿り着く結末はひとつに違いありません」
 即座に女は返した。
「けれどそれが唯一の真実か、というと必ずしもそうともいえないのです」
 女の言う意味が酌めず、桐子は口ごもる。
「真実というのは本来、ひとりの人に対して、幾通りも用意されているはずなのです。例えば男女が添い遂げるのも、また、別れてそれぞれの道を進むのも、どちらもその方にあらかじめ用意されている真実です。八卦見は、あまたある真実の尾っぽを捕まえることを役目としております」
「尾っぽ?」
「ええ。可能性を見出して、お伝えするということです。そこでなにをどう信じるか、どういう手立てをとるかは、お客様次第ということになります。そうして選んだ行いの先に、ただひとつの真実が待っているということです」
 それじゃあやはり、占いなんぞに頼らずにその都度自分で道を選ぶのと変わらないじゃあないか、と桐子は思い、その通りに反駁はんばくしようとした。が、先に女が言い放ったのだ。
「占いは助言に過ぎません。結局あなたの歩む道は、あなたが選ぶよりないのです」
 言い負かされた形で、桐子はしおしおと館を出た。腹立たしさも手伝って、家に戻ると勢い算盤そろばんを取り出した。時追町でいくら使ったのか、ずっと気に掛けながらも怖くて目をらしてきたことを、確かめる気になったのである。
 占いの都度帳面に記してきた御代を足していく。だいたい日に一、二時間相談して二十日近く……珠を弾く指先が冷たくなっていった。いつの間にか、ふた月はゆうに暮らせるだけの額をつぎ込んでいたのである。
「もう、よそう。こんなこと、やめないといけない」
 算盤を振り、声に出して言う。そういえば、仕事もすっかり滞っている。乱暴にかぶりを振って、書斎に駆け込んだ。急ぎ、翻訳途中の書物を開く。ところが気付けば、占い帳を取り出して眺め、ペンの尻を噛んで方策を練っているのだ。時追町通いをやめるには、一刻も早く伊助の件に片を付けるよりない。といって、焦って出方を誤れば、これまでの鑑定がすべて無に帰してしまう。使った金も死に金になる。天馬とかいう占い師が「よりが戻る」と告げた十日はとうに過ぎた。次は、「ひと月後」が四人、「ふた月後」が二人、「三月みつき後」が六人、「半年かかる」が七人。つまり、もっとも有力なのが「半年」であって、とてもじゃないが根気も資金もそこまで持たない。
 ――どの道を選んだらいいんだろう。
 自分の前に延びているいくつもの道筋を、改めて帳面に書き出して目を凝らす。これまで流れに任せて自然に生きてきた桐子にとって、ひとつの道を選び取ることは苦行に他ならなかった。しかも、けっして失敗のできない選択なのだ。
 ――どの道が一番有効か、明日時追町に行って訊かなければ。
 思ってしまってから、途方もない矛盾に気付いて、桐子はうずくまるようにして頭を抱えた。

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 叔母が訪ねてきたのは、この翌日の昼下がりだった。時追町に出掛けようとしたまさにそのときだったから桐子はこうじたが、姉さんにお供物を買ってきたんだ、という叔母を無下むげにもできなかった。そういえば、父が亡くなってからも欠かさず続けてきた盆の支度に、今年は手を付けていない。
 桐子の母が亡くなったとき、人目も憚らずに泣いたのがこの叔母だった。当時七つだった桐子が泣くことを忘れてしまうほど、その嗚咽おえつは凄まじかった。以来叔母はなにくれとなく桐子を気に掛け、折々に母代わりとなって世話を焼いてくれた。自分の三人の子供たちが巣立った今では、夫とふたりでいるのも気詰まりだから、とひと頃よりしげく顔を出す。
「あんた、少し痩せたんじゃないかい?」
 風呂敷包みを解いて、瓜だの桃だのを取り出しながら、叔母がこちらを覗き込んだ。
「そんなことないと思うけど……。このところ、仕事が忙しかったからかもしれない」
 とっさにごまかした。伊助という存在についても、それがもとで卜い家に通い詰めていることも、叔母に打ち明けられることではなかった。幼い頃から愛おしんでくれた彼女を悲しませるに決まっているからだ。
「忙しいのはいいことだけどね、身体を壊しちゃあ元も子もないよ。特にこう暑くちゃ、ジッとしてたって疲れるんだから。精の付くものでも食べないと」
 造作ぞうさもなく桐子の言葉を信じて、叔母は台所に立った。手には桃をふたつ持っている。慣れた手つきで引き出しから包丁をとり、素早く皮を剥いていく。
「お供えにするんじゃあないの?」
 桐子が笑うと、
「生きてる者のほうが大事だもの」
 と、背を向けたまま叔母は返した。
 艶やかな白い実を皿に載せてちゃぶ台の前に座るや、手掴みでひとつを桐子に渡し、自らもひとつとって豪快にかぶりついた。窓から射し込む陽が、したたる果汁を黄金に染めている。桐子もならって、一口含んだ。甘みより酸味が強い。時季が早いのか。それとも桐子の胸に巣くった憂鬱がそうさせるのか。ひっそりうなだれたとき、朗らかな叔母の声が降ってきた。
「しかし、あんたはいいねぇ。いい人生だよ」
 驚いて顔を上げる。叔母は、開け放たれた襖奥の書斎を眺めている。
「忙しくて大変だろうけどさ、ちゃーんと自分の仕事があるだろう。あんたにしかできない仕事が。しかもそれが好きなことでさ、しっかり稼ぎもあって、誰にも頼らずに生きていけるんだもの」
 そんなふうに思ったことなぞなかったから、「よかぁないわ。別段、私でなくたってできる仕事だし。嫌な仕事相手だって、結構あるのよ」と返したのだが、叔母は桃をかじりながらかぶりを振るのだ。
「大変なのはみな同じだよ。だけどあんたは、その『大変』の質がいいはずだ。なにしろ、自分の選んだ道なんだから」
「私が……選んだ道なのかしら」
 ぼんやりつぶやくと、叔母は弾かれたように笑った。
「なに寝ぼけたこと言ってるんだよ。天然自然に翻訳なんて仕事に就けるはずないじゃあないの。英語ができるってだけで珍しいんだよ。異人さんの本を読めるまで極めたってのも大変なことだし、仕事だってぼーっとしてて舞い込むわけじゃないだろう? あんたが相応に努めてきたから、今があるんじゃないか」
 そう言われたところで、実感は薄かった。確かに夢中になって英語を習得したし、仕事を得るために教師に紹介を請うたこともある。自ら行動を起こしたから、今の立場があるのは事実かもしれない。ただ桐子にとって、それらの行いはやはり自然のなりゆきで、悩んで吟味して選んだものではないのだった。
「それに比べると、あたしはなにも選んでこなかった気がするねぇ。親が決めた相手と一緒になって、子を育てて――それが当たり前だと思ってたから、そうしてきたけど」
 叔母は肩をすくめた。ただ桐子からすれば、伴侶を得て子をなして育て上げた叔母のほうが、遥かに真っ当で優れた人生に思えるのだ。自分の家庭を持つこと。誰かが家で待っていてくれること。それはどれほど頼もしく、温かな心持ちになることだろう。もちろん家を切り盛りする苦労はあろうが、少なくとも隣近所から怪訝けげんな目を向けられることはなかろうし、女としてもっとも自然で幸せな生き方であるのは間違いないのだ。
「私からしたら叔母さんのほうが羨ましいけど」
 ぽそりと返すと、叔母は目をしばたたかせた。そうしてから、くつろいだ笑みを浮かべた。
「結局、無い物ねだりだね。お互いに」
 勢いよく白桃を口に含んで、したたる汁を手の甲で拭いつつ叔母は続ける。
「だからってあたしは少しも後悔してないよ。旦那や子供らを大事に思ってるし、あたしに見合った人生だと思うもの。あんたもあんたに似合った人生をちゃんと歩んでる。だから叔母さん、あんたを誇らしく思ってる」
 種だけになった桃をしゃぶって、叔母はなぜだか得意げな顔をした。桐子は、食べかけの桃に目を移す。誇り、というひと言が、深く重く響いていた。
 夫の愚痴やら子どもたちの近況をひとしきりしゃべって叔母が帰ってしまってから、桐子は仕事机に向かった。すっかり溜まってしまった仕事をあらため、〆切の近いものから選んで早速作業にかかる。英文を追い、字引を引き、ひと文字ひと文字記していく。忘れていた感覚が、指先に戻ってくる。仕事に没頭するうち、長らく彼女を覆っていた黒雲が、静かに払われていくのを心のどこかで感じとっていた。

 *

 あれきり、時追町には行っていない。そうして桐子は、伊助について、「選ぶ」ということを諦めてしまった。八卦見から勧められた行いをなにひとつ起こさないことにしたのだ。ということは、「そっとしておく」を選んだことになるかもしれないが、もはや、その選択について思い巡らすこともなくなっていた。
 夏の終わる頃には、自分が占いによってなにを得たかったのか、思い出すことも難しくなっていた。あそこに通い詰めていた頃の自分は、本当に自分なのだろうか、と怪しむ。
 伊助のことは今も折々に想う。ことに、惚れ惚れするようなその笑顔を。今頃、妹を取り戻して一緒に暮らしているかもしれないと想像することもあったが、以前のように桐子の胸がざわめくことはなくなった。食欲も戻り、仕事も順調に進みはじめた。打ち合わせで会う編輯者たちに、「このところとみに元気そうですね。夏ばて知らずで羨ましいな」と、からかわれるまでになって、桐子は安堵の息をついた。
 自分の道に、戻ったのだ、と。

 それは九月半ばの日暮れ時だった。夕飯の支度のために台所に立ったとき、玄関戸が控えめに開く音が聞こえた。仕事の来客はないはずだけれど、と訝りながら玄関口に出て、桐子は息を止めた。
「今、仕事が終わったんで」
 ひどく小さな声だった。
 伊助はうつむいて、三和土の石を見詰めている。桐子もまた、言うべき言葉が見つからず、うつむいた。あれからどうしていたのか、どうして急にここへ来る気になったのか、問うべきことは無数にあったが、その答えを本当に知りたいのか、桐子自身もよくわからなかった。だいぶ経ってから、こんばんは、とひっそり返す。なんの抑揚もない声になった。伊助が上目遣いにこちらを見た。
「いけねぇと思ったんだが、来ちまった。すまねぇ」
 ううん、いいのよ、と応えながら、桐子は占いの結果を書き込んだ帳面を久方ぶりに開きたいという衝動に駆られている。
 戻る時期……ふた月。こちらの出方……そっとしておけば、彼から歩み寄ってくる。
 真実を導き出したのは、どの占い師だったろう――。
「あがっていいかな。桐子さんの好きなわらび餅、買ってきたんだ」
 伊助の言葉に頷きながら、桐子はこっそり溜息をつく。
 ――また、悩んで選ばなければならない日がはじまるんだろうか。
 自然に、心のままに、自分でも気付かないうちに選び取っている、そういう進み方ができないことの、煩わしさに捉われる。そこで抱える懊悩に、どんな意味があるのだろうと思えば、余計に身体が重くなった。
 ありがとう、とわらび餅を受け取って、桐子は笑みを返す。精一杯の作り笑いであったのに、伊助はすべてを許され、受け入れられたと信じたふうに頬を弛めた。そうして、慣れた仕草で座敷にあがると、「この家はいつ来ても居心地がいいな」と言って、大きく伸びをした。

「時追町の卜い家」 了

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『占』木内昇

2020年1月20日発売 [定価]1,800円+税

人が占いの果てに見つけるもの。それは自分自身かもしれない。

迷いのなかで一筋の希望を求める女たちの姿を「占い」によって鮮やかに照らし出す、七つの名短編。

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