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海を覗く

伊良刹那/著

1,980円(税込)

発売日:2024/03/27

  • 書籍
  • 電子書籍あり

高一の夏に三島由紀夫と出会った十七歳が放つ、新潮新人賞史上最年少受賞作。

海を見た人間が死を夢想するように、速水圭一は北条司に美を思い描いた。高校二年の春、同じクラスの北条の「美」の虜になった美術部の速水は、彼の肖像画を描き始めた。二人の仲は深まっていくが、夏休みのある出来事が速水の心を打ち砕き――少年の耽美と絶望を端正かつ流麗な文体で描き、選考会でも激論を呼んだ話題作。

  • 受賞
    第55回 新潮新人賞

書誌情報

読み仮名 ウミヲノゾク
装幀 Ney/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 176ページ
ISBN 978-4-10-355441-7
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,980円
電子書籍 価格 1,980円
電子書籍 配信開始日 2024/03/27

書評

波のように迫る絢爛な言葉たち

東出昌大

 読み終えて、困惑した。いや、読み進めているうちから、物語を追う頭の横で、何か違和感のようなものを抱き続けていた。こんな感慨を抱く作品は私の読書体験ではあまり無い。
 著者の伊良さんは現役高校生で、この春に高校を卒業される。新潮新人賞受賞後のインタビューのタイトルには「Z世代」の文字が目立つ(ゆとり世代と言われた世代の私だが、どうやらまた狭い範囲の世代を象徴する新しい言葉が生まれたらしい)。インタビューには「とにかく三島由紀夫が好きで、あんな美しい文章を書いてみたいと思った」とある。
 私も「三島が好き」と馬鹿の一つ覚えよろしく公言し続けてきた甲斐があり、その噂が編集者さんの耳に入り、書評のご依頼を頂いた。『海を覗く』、綺麗なタイトルだ。読み始めようとフッとページをめくり、ハッとした。文学が学問であるなら、その学問に疎い私の率直で陳腐な感想は「すげぇ。三島みたい」だった。
 美しいとは何か、綺麗とは何かを「こういうことだ」と言葉で説明し尽くすことは難しい。しかし私は、日常的には使われなくとも、その状況や有り様を端的に表す言葉が組み込まれた文章を美しいと思う。渋谷のセンター街でたむろする若者の9割9分が分からなそうな、作中で用いられる語彙の数々。恍惚、顕現、久遠、瑕瑾、独立不羈。文豪の小説を、特に三島の本を読み始めた自身の青年期、辞書をとっくり返しおっくり返ししながら読み進めた頃を思い出す。
 三島の文章は時代の違いもあるかも知れないが、普段使い慣れない、読み方も分からないような言葉がちりばめられていた。それでも読み進めるうちに馴れ始め、気づけば「日本語とはかくも美しいものか」と胸を躍らせた。そして、これ以上の文章表現はないのではないか と、今でも私の中で至高の作家である。この小説も、そんな絢爛な言葉たちが波のようにこちらに迫り、久方ぶりに足元を濡らされたような印象を覚えた。
 この物語に終始通底しているテーマは美である。高校の美術部に所属する主人公は同性の級友の美貌に心を奪われ、美醜や生死や刹那と永劫について考える。そして物語に登場する、数は決して多くない人物達が実に魅力的だ。最初出てきた時は「何だこいつ」と思った美術部の先輩矢谷だったが、物語が進み彼の知行が合一した瞬間に私は快感を覚えた。地震に騒ぐだけで不当にも主人公に白い目で見られる美術部の女の子、山中。思春期の面倒臭さが詰まった矢谷の彼女、七瀬。そして物思う乙女、棚橋の表裏一体の魅力。物語が進むにつれ人物が躍動し、会話の応酬が心地よくなる。ぶつけられる感情、吐き出される言葉に、バットが球を真芯で打ち抜いたような快感を覚える。
 ふと、読み続けて覚えていた違和感の一つは、現代に三島文学が甦ったかのような錯覚を私自身が起こしたことによるのだろうと気付く。『豊饒の海』の主人公松枝清顕は、級友の本多と明治末から大正初年の学習院で生きる意味を語り合った。『金閣寺』の主人公溝口は先天性の内飜足を意識的に利用する柏木と、戦後の荒廃甚だしい京都で人の執着について語り合った。今作の主人公は美について内省し、芸術について先輩と語り合い、作者によって「恋に落ちていた」と心情を暴かれる。その文体も構成も三島に非常に似ている印象を受けるが、しかし舞台が私たちの知る高校の美術室や夏の花火大会や修学旅行の奄美大島だから、身体が痒いような心の隅がモニョモニョするような感懐を抱く。
 そしてこれは、私自身の問題でもあるのだと思う。三十も半ばを過ぎた壮年の私は、制服を纏った少年の面影を残す高校生たちが芸術家や美について断定的に論じる様を見て「このガキは何を偉そうに」と自身の狭量さを発揮してしまうのだ。それでも、読み進め精密な文章をまざまざと見せつけられ、人物達の心の内の切なる慟哭を感じるにつれ、「年齢など関係ないのだな」と嘆息し、「精一杯生きろ」と祈る。
 三島がこの小説を読んだら、何と言うだろう? そんな事を想像しても詮無いが、不機嫌になるか、鼻で笑うか、極東の島国も捨てたもんじゃないと思うか。伊良刹那。あなたのお名前は覚えました。「三島三島」言ってごめんなさい。いつか、精緻でも絢爛でもない、真っ直ぐで考え抜かれた骨太の詩のような、あなたの文章を読んでみたいです。書評ついでに図々しいお願いをしてしまいましたが、お許し下さい。次回作を気長に楽しみにしております。

(ひがしで・まさひろ 俳優)

波 2024年4月号より
単行本刊行時掲載

〈影響〉という名の翼

石井遊佳

 自身を顧みるに、本格的読書を三島文学から開始した私は、浴びるように三島を食らっていた当時、まれに小説を読んでいる友人がいるとその手にあるのが三島作品でないのを見て、「なんで三島由紀夫読まへんのやろ?」と不思議に思うような仕方のない高校生であった。
 同じく三島文学に傾倒する作者による『海を覗く』は、第五十五回新潮新人賞に輝いた作品である。
 作者・伊良刹那は同賞受賞者の最年少。三島由紀夫を読み始めて二年足らずの十七歳の少年がこの小説を書いたことは理屈抜きに衝撃であり、かつ作者の年齢を考えればこの作品はほんの瞬きの間の通過点に違いなく、これが処女作であり出発点なんだったら、この先いったいどれだけ化けるの? というおののきを禁じ得ない。
『海を覗く』の主人公・速水圭一は高校二年、美術部員である。同級生である北条司の美貌と透徹した無関心さに惹かれ、絵のモデルになってもらう約束をする。物語は速水自身の内省を基調として彼の北条への恋が描かれ、同じ美術部員の山中春美、美術部部長の矢谷始なども絡みつつ十代の潔癖な観念性、アンバランスな精神性が浮き彫りにされる。
 作者自身が述べるように、『海を覗く』は三島へのオマージュとして捧げられている。例えば主人公の〈認識〉への固執、観念的な美の追求、同性愛。女性への残酷な眼差し、〈火〉への心理的接近、また〈窃視〉〈仮面〉といった語の頻出。三島作品、とりわけ『金閣寺』『豊饒の海』あるいは『仮面の告白』あたりの諸作品における主要概念あるいは人物造型等がこの『海を覗く』に綺羅星のごとく鏤められ、まさにこの作者の全身は三島で出来ている、そんな印象すら受ける。
 しかしながらただの模倣ではもちろんなく、もろもろの三島要素を作者はその年齢なりの素材、創意、感性の中に落とし込み、清新な言語感覚で新しいイメージと世界観を引き出して見せる。
 しかも冒頭から結末までまったく息切れしていない。タダモノではない。
 私個人としてはこの作者の繰り出す比喩が好きだ。非常に新鮮かつ独特。一つだけ例を挙げる。奄美に修学旅行に行ったさい北条と並んで海辺に座っていた速水が、ふと二人の間に落ちていた小さなガラスの欠片を見つけて摘み上げ、太陽を透かし見たときの印象。
〈破片が日を浴びる。それだけで、ガラスの透明な内部構造がさらに砕かれたように見える。何かを壊すということは、何かを照らすということとよく似ていた〉
 比喩表現にかぎらず文章中の個々の言葉遣いからしてかなりアクロバティックで、しばしば「破格」なのである。それも日本語としてあまりにきわきわな表現の数々だ。そのため最初は少々面食らうが、じょじょに、破格と取るよりは、それがこの書き手の個性であり自由さであると取る方が妥当な態度かもしれないと思い始める。文章そのものに説得されたのだ。つまりそこに展開されているものが、作者の単なる言葉への無知ないし軽視からではないことが、読むほどに感じられるからである。たとえばAIを利用して「三島風文章」を書くことは可能だろう。しかしこの文章は決して書けない。
 小説として未熟な点は多々ある。例えばエピソード相互の関連づけ、時間経過の処理、場面設定の自然さ等に関してだが、それを補って余りある才気が全篇に漲っており、全体として独自で魅力的な世界を創り出し得ている。それは先に述べたように傑出した文章力によるところも大きいが、やはり作者が自分の書きたいものをまっすぐに見つめ、終始ぶれていない粘り強さが最大の要因だと思う。作家になりたい、というよりまず書いてみたい文章と物語があったから書いた、という作者。(執筆当時)高校生であった作者が人生と相渉り、いま世に在ることの困難の感覚が痛切に伝わってくる。
 未来にむけて作者に期待したいのは、現在の方法論の根底にある三島と対峙し、批評的態度を以て自身内部にあるその圧倒的〈影響〉を変質させていくこと。〈影響〉は枷であり限界でもありうるが、一段階、二段階と突破した先にある、その〈影響〉を翼として羽ばたく空は無窮だろう。誰しも第一歩を踏み出すさいに「縛り」は必要なのだ。三島自身が語ったように小説とは「どう仕様もないほど自由」な芸術分野だから。一作ごとに前作を瞬殺してゆく若い勢いで、今後とも読者をこっぱみじんにしつづけてもらいたい。

(いしい・ゆうか 作家)

波 2024年4月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

伊良刹那

イラ・セツナ

2005年生まれ。『海を覗く』で第55回新潮新人賞を受賞(受賞時17歳、史上最年少)。

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