ホーム > 書籍詳細:かがやく月の宮

千年の時を経て、秘匿されていた真の「竹取物語」が、鬼才の筆で今、蘇る。

かがやく月の宮

宇月原晴明/著

1,728円(税込)

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発売日:2013/11/22

読み仮名 カガヤクツキノミヤ
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 239ページ
ISBN 978-4-10-433603-6
C-CODE 0093
ジャンル 歴史・時代小説
定価 1,728円
電子書籍 価格 1,382円
電子書籍 配信開始日 2014/05/16

かの有名な竹から産まれたという逸話も、五人の公達の尋常ならざる貢物も、すべて竹取翁の仕掛けた罠だった――? 翁の術中にはまった帝は禁裏を抜け出し、竹取館へ向かう。愛しのかぐや姫と邂逅を果たした帝は、しかし、病に伏してしまった。天照大御神の末裔は一体、何を見たのか。姫が昇天する夜、月が真実を照らし出す。

著者プロフィール

宇月原晴明 ウツキバラ・ハルアキ

1963(昭和38)年、岡山県生れ。早稲田大学文学部日本文学科卒。出版社勤務のかたわら著作活動を続け、1999(平成11)年、評論「お伽ばなしの王様――青山二郎論のために」で三田文学新人賞、小説「信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス」で日本ファンタジーノベル大賞、『安徳天皇漂海記』で山本周五郎賞を受賞。著書に『聚楽 太閤の錬金窟(グロッタ)』『黎明に叛くもの』『天王船』『廃帝綺譚』などがある。

インタビュー/対談/エッセイ

波 2013年12月号より 喪失を荘厳する

宇月原晴明

最初にことわっておかねばならない。著者は自作について素直には語らないものだ。
例えば、三島由紀夫は『豊饒の海』について、「『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語」であると註記した。しかし、半分しか真実ではないと僕は思う。もう一つの典拠に三島はあえて触れなかった。『竹取物語』だ。
『豊饒の海』は、『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語である以上に、『竹取物語』を典拠とした喪失を荘厳する物語である。夢も転生も、ただ喪失を荘厳するために存在するのだから。
「月のカラカラな嘘の海を暗示した題」を冠し、月光姫と月修寺の聡子という二人の姫が雲間の月のごとく見え隠れするこの物語は、かぐや姫を失った帝の「逢ふ事も涙に浮かぶ我が身には死なぬ薬も何にかはせん」を本歌とし、その下の句を「輪廻転生も何にかはせん」と変えることで生まれたに違いない。
そう、『竹取物語』こそ、三島が愛してやまなかった「存在しないものの美学」、「喪失が荘厳され、喪失が純粋言語の力によってのみ蘇生せしめられ、回復される」という試みを、最も早く、最も純粋に結晶化し得たのである。定家の「花ももみぢもなかりけり」という歌の心は、はるか昔に先取りされていた。
輝く姫は失われ、姫の遺した不老不死の薬も失われ、後にはただ、荼毘の煙にも似た富士の煙だけが残される。「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」という『ファウスト』の結末がお気楽にしか思えない、永遠にして女性的なるもの、我らを置きて昇り去る徹底的な喪失。それを荘厳するために生まれた一篇が、本朝の「物語の出で来はじめの祖」(紫式部)であることの恩寵と呪縛。日本の言葉を使って物語るかぎり、誰もみな、かぐや姫に祝福され、同時に呪われる。『豊饒の海』がそうであるように。
かくも月に憑かれて誕生した物語の宿命に思いを馳せ、同じく喪失を荘厳する『伊勢物語』の星々のごとき逸話や歌、『宇津保物語』の波斯(はし)国の消息、神話の欠片、史実の暗示、果ては稲垣足穂のキネマの月まで、古今も東西も問わず融合し、「かがやく日の宮」の物語である『源氏物語』へ、もう一つの『竹取物語』を立ち上げることができたら……と夢だけは大きく見たのである。我ながら、とにもかくにも七年間、夢だけは……。
月は自ら輝かない。その光は、他からの輝きを反射し屈折したものだ。多くの文化で、月光は日光とは違う、狂気と蠱惑に満ち、穢れ腐敗した、偽りの病んだ光であるとされてきた。そんな月の物語にふさわしいのは、自らを恃み無から生まれたことを誇る独創の言葉ではなく、どこまでも他の影を帯びた本歌取り、見立て、取り合わせによる言葉だ。「文学の創作とは、我々が読んだものの記憶と忘却の混交にすぎない」とボルヘスのように嘯き、陳腐な紋切型、退屈な遊戯、醜いキメラに堕すことも恐れない、反射と屈折を幾重にも畳み込んだ言葉だ。それはまた、狂言綺語や怪力乱神を語ること、つまり、幻想に舞い上がることを恐れない言葉でもある。そうした言葉だけが、喪失を荘厳できる。
『竹取物語』はお伽噺(フェアリーテイル)にすぎない。しかし、そのお伽噺がなければ、この国に物語は生まれなかった。『竹取』の幻想(ファンタジー)の裏打ちがなければ、『源氏』の現実(リアル)は生まれない。『竹取』の喪失を引き継がなければ、『源氏』はついに、平安のドン・ファンが繰り広げる宮中恋愛絵巻にすぎなかっただろう。
三島は、『豊饒の海』第二巻『奔馬』で、三輪山の磐座のさまを「神が一度坐られたあとでは、地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思われた」と記している。『源氏物語』とは、その磐座のようなものだ。輝く姫が一度去ったあとでは、この国の物語はこんな風に変貌するしかなかったのではないかと僕には思えてならない。
太陽が月を消すように、『源氏物語』は『竹取物語』を消してしまった。後世に様々な影響を与えたのは『伊勢』から『源氏』への系譜ばかり。あの王朝マニアの琳派にさえ、『竹取』をモチーフにした品を知らない。『宇津保物語』のごとく渾沌のまま忘れられたわけでも、散逸し失われたわけでもない。かぐや姫は誰もが知っている。しかし、本当に知っているのか。『竹取物語』は今もなお、月のごとく謎めいて、はるかな高みで独り煌々と輝いている。普遍にして孤独、それは幻想的な、あまりに幻想的なものの宿命であろうか。
『源氏物語』が誕生から千年を迎え、盛大に寿がれたのは数年前のことだ。拙作がどう受けとめられたとしても、千と百年あまりはこえたはずの『竹取物語』の誕生を寿ぐことだけは果たせた。そう信じたい。泉鏡花生誕から一四〇年、式年遷宮のこの年に。
最後にことわっておかねばならない。著者は自作について素直には語らないものだ。

(うつきばら・はるあき 作家)

刊行記念トークショー特別再録

波 2014年2月号より

【刊行記念トークショー特別再録】
嘘八百から真実を誕生させる
宇月原晴明×京極夏彦



京極 小説って虚実のあわいをどのレヴェルに設定するかで作品の性質が変わりますでしょう。虚の上に実を載せるか、実に虚を混ぜるか。伝奇小説って大本のところが嘘なんですね。僕はそこが好きなんですけど、ただ、残念なことに伝奇小説の命脈は細ってきているように感じます。あまり書かれていない。宇月原さんのデビュー作『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』を読ませていただいて、膝を打ちました。荒唐無稽なことをものすごく真面目にきちんと書くという姿勢は、まさに伝奇の手つきだと思ったんですね。この路線で行ってくれたら嬉しいなと強く思いました。その後もその路線は堅持してくださっているんだけど、ただペースが少しゆっくりめで(笑)。ご自身は伝奇小説を書いているという自覚はあるんですか?
宇月原 あります。本当は「京極堂」シリーズのような小説を書けたらいいんですが……憧れているばかりで。
京極 書けるでしょう。あれは簡単ですよ。伝奇小説のように世界の仕組みとか作っていませんからね。
宇月原 そんなあ(笑)。世界を作ってさえおけば作りっぱなしでいいので、むしろ簡単ですよ。「京極堂」のように創造したものをきれいに解体してしまうのは実に難しい。
京極 いやいや、そこを作るのは相当面倒くさいことですよ。
宇月原 確かに。今回は七年もかかってしまいました。
京極 かぐや姫を題材にされたとは、意外でしたね。『竹取物語』って、物語の祖ですよ。最古の物語でありつつ、齟齬がなく構造的に破綻もしておらず、魅力満載の完成度の高い作品です。それにどう立ち向かうのかと思って拝読したらば……ジジイがいましたね――。
宇月原 竹取翁ですね。じじい、お好きですか。僕も好きなんです。
京極 この手があったかと。宇月原さんの、異なる題材をより合わせる手法は見事ですね。
宇月原 『竹取物語』が画期的なのは、神話でも伝説でもなく、ある知的な一個人、おそらく男性が、自分の嗜好や知識を独自に組み合わせて書いた、まったく私的でユニークな物語であることです。『伊勢物語』のように史実にも頼らず、『宇津保物語』のようにぐだぐだにもならず、きちんと書き上げた。そんな『竹取』の成功が、百年あまり後、さらに知的な一人の女性を奮起させ、『源氏物語』が生まれたと僕は思っています。それで、『源氏』の失われた巻かもしれないと噂の「かがやく日の宮」につなげて『かがやく月の宮』という書名にしたんです。
京極 実は最初のうちは気付いてなかったんです。読み始めて「あ、これかがやく日の宮だ」と気付いて、悔しいけど驚きました。
宇月原 それは嬉しいです! 「かがやく日の宮」とは、『源氏』での藤壺の呼び名でもあります。藤壺は光源氏の実の母である桐壺に瓜二つですから、つまり、桐壺も「かがやく」女性であった。ただ、宮でない。「いとやんごとなき際にはあらぬが」と明記されています。輝く高貴な身分ではない姫。まんま、かぐや姫ですよね。紫式部は、かぐや姫の特性を桐壺と藤壺の二人に分けて巧みに配置し、姫がもし宮中に入っていたらというポスト『竹取』の物語を書こうとしたのではないか。光源氏は、かぐや姫の息子であり、かつ、かぐや姫を恋い慕う皇子として創作された。だから、ただのドン・ファンでは終わらない。

幻想が現実を生み出す

京極 なるほど。国文学の論文に書けそうな説ですけど。
宇月原 思いつかないはずはないんですが、少なくとも一般的な説ではないようです。
京極 最近つくづく思うのですが、定説は事実というわけではないですね。史実に則って云々というけれども、学者だって間違うし、間違いは正される。定説も覆る。いい加減なとこも多々あります。
宇月原 過去も未来と同じく存在しませんから。記録と記憶が残っているだけで、どちらも後からいじれます。
京極 歴史学はテキストクリティークに徹する学問なので、民俗学なんかと較べると厳密な学問分野と思われがちですが、だからこそわからないところはわからない。歴史学者はいい加減な部分をなくすために全力を尽くすことになる。そういう姿勢が小説家に欠けているように思うんです。
宇月原 伝奇小説の命脈が細ってきているというご指摘のとおり、書き手も読み手も、史実とされているものにとらわれすぎているのかもしれませんね。奇想が天外に抜けて唯我独尊と舞い上がるようなものは、あまり……。その手のものがはやるのも、それはそれで危険ですが。
京極 危険です(笑)。しかし、最初に言った通り小説は嘘八百なんですよ。嘘なのに嘘じゃないかもと思える一瞬が訪れるから面白いのであって、そこを外してはいかんと思う。資料を上手に、どうねじ曲げるかが肝心で(笑)。
宇月原 拙作中に「嘘ばかりからできた真」というキーワードが出てきます。実はこれ、小林秀雄が泉鏡花を評した言葉です。嘘八百でしかないものが、そこからしか生まれない真実を誕生させる。『竹取』の幻想が『源氏』の現実を生み出す。まず現実的な物語が生まれ、それから幻想的な物語が書かれたと思われがちですが、逆なんですね。
京極 その通りだと思います。「むかしむかし」で始まる民話は、はるか昔からその土地に伝わっているもんだと大方の人は思っていますが、大間違いです。民俗学ができたのは近代以降ですからね。遡ってもせいぜい江戸後期の人にしか取材できません。創作されたオハナシが先にあるというケースは、ことのほか多い。創作というのは面白ければいいわけだから、適当ですね。時代考証もいらない。その適当が、リアルをまとって地域に定着していく。だから、『竹取物語』という、大変に良くできた物語に触発されて、小説が作られていくというのは自然な流れですよね。実際にはありえない設定の物語を礎として、現実的な設定の小説が生まれることだってある。ただ我々は半ば教条主義的に、その逆を求めがちなわけですが。
宇月原 現実第一というのは、近代以降に教え込まれた偏見です。
京極 しかし、それをひっくり返すのが小説だと、僕は思います。僕らが盤石だと思っている常識だの定説だのいうものも、実は怪しい。みんなが信じているけど、嘘かもしれない。概念の上で虚実に差はない。僕はそういうスタンスなので、宇月原さんのような「えぇ、どっちなの?」というあたりを力強く押し出してくれる小説を生み出す作家がいること自体、本当に心強いです。
宇月原 ありがとうございます。そんなふうにおっしゃっていただけると、ぽつりぽつりとでも書いてきてよかったと、しみじみ思います。

発掘された特別な絵

宇月原 京極さんは『書楼弔堂 破曉』を刊行されましたが、そこで実に印象的に採り上げられている月岡芳年の「幽霊之図」で、僕の芳年への評価が変わってしまいました。新シリーズの始まりを飾るにふさわしい何とも不思議な魅力に満ちた絵で、多作な芳年の画業から、ほとんど知られていない肉筆のこの一枚を選んだのは、やはり京極さんの小説の力であり、「嘘ばかりからできた真」を象徴していると思います。
京極 僕、この絵が好きなんです。
宇月原 現物はご覧に?
京極 いいえ。展覧会も間に合いませんでした。仕事してたんです。本当にイヤですね仕事ってものは(笑)。「幽霊之図」は作中に出てくるので、表紙に使わせてもらえたら嬉しいねと言っていたんですが、叶ってしまいました。
宇月原 肉筆幽霊画として片づけられ見すごされているようですが、この絵は実は日本で極めて早い時期に描かれた裸体画、もしかしたら、近代日本画としては初めてに近い写実的なヌードではないでしょうか。幽霊図としても異例の後ろ姿ですし、あきらかにトルソー的な美をねらってますよね。
京極 浮世絵などの裸婦とは、あきらかに描かれ方が違いますね。
宇月原 進取の気概にあふれた芳年ですから、泰西の美術雑誌や石膏の複製像などで接した西洋の最新のものを、日本の伝統的なものと融合しようとしたのではないか。当時ヨーロッパはルネサンス以来のギリシア・ローマブームで、古代彫刻に影響された裸体画が流行していました。芳年は、幽霊を題材に東洋のヴィーナスを描かんとしたのではないか。そこで思い出すのが、同時代のもう一枚の絵、東洋的な伝統と西洋的な写実を融合させた近代日本画の金字塔、狩野芳涯の「悲母観音」です。こちらは観音を題材に東洋の聖母子像を描き、重要文化財ですよ。最後の浮世絵師の「幽霊之図」は死の母子像、最後の狩野派の「悲母観音」は誕生の母子像で、まさに対をなしています。
京極 この「幽霊之図」には品があるでしょう。幽霊はもっと幽霊らしくグロテスクに描くのが当時のきまりですし、そもそもお化けをこんなに格調高く見せることはないんだけど、この見せかけが我々の何かを捉えるわけです。その何かなんですよね。『かがやく月の宮』もそうだと思うんですが、話自体の面白さだとか、構成の妙だとか、テクニックを超えた何かに魅力を感じてるんですね、受け手は。芳年は画力も図抜けているんだけれども、それだけではない。浮世絵は基本トレースからスタートしますが、芳年は観て描いた人です。じゃあ写生なのかというと、そうでもない。モチーフに足し引きして違うものに変えてしまう。「幽霊之図」も想像で描けるような絵ではないから、まあ実際に幽霊を見たという逸話と重ねてみたんですが。
宇月原 京極さんはこの絵が持つ不思議なリアリティーを抉り出し、作品の中核に据えた。この一枚が芳年にとっていかに特別なものであるかを余人には不可能な「嘘ばかりからできた真」としてお書きになった。これこそ、嘘八百を操る小説家にしかできない仕事です。月岡芳年没して一二〇年あまり、「幽霊之図」にこれだけ光をあてたのはこの本が最初かもしれない。脱帽です。『書楼弔堂 破曉』は全編そんな発見と驚きに満ちています。
京極 でも、僕は資料を読み込んで書くタイプではないんですよね。ただ「あ~」と言いながら書いてるだけなんですけど。
宇月原 ……(笑)。一度でいいから、「あ~」と言うだけで書けたらなあ。
京極 宇月原さんは、様々な題材を組み合わせて、化学反応を起こさせるような書きぶりに感じますけど、僕は朧気な記憶だけを頼りに書いてしまいますからね。いけませんね(笑)。書き終わってから答え合わせ的に調べてみたりしますけど。それから、宇月原さんはとても平穏で凪いだ文体で、波瀾万丈な内容のストーリーを書かれるでしょう。これは凄いことですね。どんどんフォロワーが出てきて欲しいです。一方、僕の小説はどんどん何も起きなくなっている。最近ではじいさんが朝目を覚ましてカーテンを開けるまでが短編一作だったりする(笑)。波瀾も万丈もない。
宇月原 それがまた魅力的なんです。何も起こらなくても、ダイナミック。『書楼弔堂 破曉』はまさに「一冊の虚は実になる」で、虚構は閉じられてなく、現実に開かれている。虚と実へのリンクが幾つも張り巡らされており、踏み込んで読める読者には、踏み込むほどに新しい世界が開けてくる。踏み込めなくとも、お茶を飲んだり、鰻を食べたりなんて何も起こらない描写の滋味を堪能できます。不思議を愛して不思議に溺れない精緻な知性、文化伝統を尊重して妄信しない広い視野、多彩でいて統一され、ポップかつ品がある文体……バルザックの人間喜劇のごとく「概念」喜劇を書きつくさんとされるかのような京極ワールドの圧倒的な展開に驚き憧れ、仰ぎ見つつ、はるか後ろからぼちぼち付いて行くだけです。京極さんのいる世界といない世界では、僕の書いているものへの理解度がまるで違う。同世代の魁として、いていただくだけで、ありがたいです。まず京極さんを読んでもらわないと話にならない。京極さんが駄目って人は、僕には縁なき衆生です。
京極 僕は、僕のいない世界で宇月原さんの小説を読みます。それはいいなあ。楽ですし。
宇月原 そうはいきません(笑)。京極さんにいてもらわないと、僕が楽できませんから(笑)。
(うつきばら・はるあき 作家)
(きょうごく・なつひこ 作家)

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