波 2010年4月号より
「ジャスト・ナウ」ではない現実
――伊坂幸太郎『オー!ファーザー』を読んで
奥山和由
最初に読んだ伊坂作品は『チルドレン』で、読むなり「この作品を映像化したい」と思った。すぐに連絡を取ったが既に映像化権は押さえられていて、その後、他の伊坂作品に何度トライしても、ことごとく権利は押さえられていた。そんなことを愚痴混じりに話していたら、ある人から「今、新聞で連載中の作品がある。まだ本になってないし、さすがに映像化権は空いてるんじゃないか」と紹介されて読み始めたのが、この『オー!ファーザー』だった。
伊坂作品が好きだと言っても、何でも映画にしようと思っていたわけではないし、連載で新聞小説を読む習慣はなかったからやや心配だったが、そんなものは杞憂だった。まず会話がいい。会話の上手さに関しては私が今更言うまでもないことだが、細切れのごとく短い連載一日分の中でも、充分に素晴らしいやりとりがある。特に、四人の父親と息子である由紀夫との掛け合いは、おかしみの中に真実を内包していて、読みながらなるほどと何度も頷いてしまった。ストーリーのうねりもさることながら、その瞬間瞬間の会話の面白さで、最後まで連れられて行った感がある。
伊坂幸太郎の小説を読んでいて思い出すのは、エーリッヒ・ケストナーである。現実から数ミリ、数センチ離れているのだけれども、読んでいると自分の奥深くに眠っている記憶に作用して、今まで忘れていた――忘れたことさえ忘れていた――感情を思い起こさせるのだ。
そしてこの、現実から少しだけ離れているということが、寓意を際立たせ、特異なキャラクターへの違和感をなくしている。現代を舞台にしてはいるけれども、「ジャスト・ナウ」の現実とは違う。そこが伊坂作品の魅力である。
そして同時に、映像化における難しさでもあるだろう。現実のように読めるけれども、現実とイコールではないから、まったく同じように映像化しようとすると、どうしても違和感が出てしまう。人物にしても、会話にしてもそうだ。
ある伊坂作品を映画にしたくて、仲間と話をしたことがあった。ある人は、伊坂作品の魅力はスピード感だと言った。確かにそういう面もある。トリッキーに打たれた布石が、終盤一気に回収されていく様はとても映画的だ。だが、それは一面しか捉えていないし、私の考えはまったく違う。
私の考える伊坂作品の魅力は、「変わらなさ」である。登場人物はみな、どこか少年の心を持っている。物語の中で非日常的な出来事に出くわして、変わらざるを得ない局面に立たされるけれども、それでも「そこだけは変わらなかった」という部分が確かにある。読み終わって一番胸に残るのはそこだ。ひいてはそれが自分の中の少年期を呼び起こし、物語の余韻とあいまって、例えがたく甘美な読後感を抱かせるのだろう。
とはいえ、ただ心地よく、甘美なだけではない。そこにさりげなく顔を出す死の影も、重要なモチーフだ。私は、とりわけ死をモチーフにした伊坂作品が好きだ。なぜなら、「変わらない」ことにまっこうから対峙するのが「死」だからである。死はどうしても避けて通れない「変わること」で、それと向き合うことで人間はどうなるのか、その伊坂幸太郎なりの考えが、作品から浮かび上がってくるからである。
そして、現実から数ミリ浮いている世界の中で、死だけはリアルに現実との接点となって、地続きの感覚へと引き戻す。『オー!ファーザー』の中で、由紀夫が夢を見る場面がある。父親の不在に関する夢なのだが、その場面のリアルさと寂しさは、他と明らかに質を異にする。ここと、黙々とバスケットのシュート練習をするシーンは、もし私が映画を作るのであれば是が非でも入れたいと思っている。他にもそういった場面はあるが、どれも本筋とは関係ない場面である。物語のうねりには関与しないけれども、その景色の持つ深層心理は大事なものばかりで、そういった場面こそが、映画に必要なのだからだ。ちょっとした描写に、感情が分かちがたく結びついている。そこは、伊坂幸太郎が無類の映画好きという点と、密接に絡み合っているのかもしれない。
伊坂さんは、今は自作の映像化に関して、少し距離を取っていると聞く。いつか気が変わって映像化もいいなと思ってもらえたときのために、この作品をどう料理するのか、私は既に、そして勝手に考え始めている。