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書けない症候群に陥った作家たちの謎の時間を探る、異色世界文学史小説。

バートルビーと仲間たち

エンリーケ・ビラ=マタス/著 、木村榮一/訳

2,052円(税込)

本の仕様

発売日:2008/02/29

読み仮名 バートルビートナカマタチ
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 223ページ
ISBN 978-4-10-505771-8
C-CODE 0097
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 2,052円

一行も文章を書かなかったソクラテス、十九歳ですべての著書を書き上げ、最後の日まで沈黙し続けたランボー、めくるめくような四冊の本を書き上げ、その後三十六年間私生活の片鱗をも隠し続けたサリンジャー……。共通する「バートルビー症候群」を解き明かし、発見する、書くことの秘密。新鮮なスペイン文学最高峰。

著者プロフィール

エンリーケ・ビラ=マタス Vila-Matas,Enrique

1948年、スペイン、バルセローナに生まれる。大学生の頃から雑誌の編集に携わり、映画評論を執筆。映画の制作にも関わる。1984年に発表した『詐欺』で小説家として知られるようになり、1985年に芸術家たちの秘密結社を描いた『ポータブル文学小史』で一躍脚光を浴びる。以後着実に作品を発表して、本国はもとよりフランス、イタリアなどの様々な文学賞を受賞。『バートルビーと仲間たち』も出版直後から大きな反響を呼び、フランスの「外国最優秀作品賞」などを受賞した。作品は発表後すぐに数多くの外国語に翻訳される。現在もっとも熱い注目を集めているスペインの作家。

木村榮一 キムラ・エイイチ

1943年、大阪生まれ。スペイン文学・ラテンアメリカ文学翻訳者。神戸市外国語大学イスバニア語科卒、同大学教授、学長を経て、現在、神戸市外国語大学名誉教授。主な著書に、『ドン・キホーテの独り言』、『翻訳に遊ぶ』(岩波書店)、『ラテンアメリカ十大小説』(岩波新書)など。主な訳書にコルタサル『悪魔の涎・追い求める男』(岩波文庫)、バルガス=リョサ『緑の家』(岩波文庫)『若い小説家に宛てた手紙』(新潮社)、ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』、『コレラの時代の愛』、『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』(新潮社)、『グアバの香り――ガルシア=マルケスとの対話』(岩波書店)他、多数。

書評

不思議な「友達の輪」

柴田元幸

 非常に不思議な本である。まず、『バートルビーと仲間たち』というタイトルからして不思議である(スペイン語の原題もBartleby y compania)。バートルビーといえば、ハーマン・メルヴィルの有名な短篇の主人公で、最初は法律文書を書き写す仕事だけはするけれども、やがてそれもしなくなり、何を命じても“I prefer not to”(本書の木村榮一訳では「せずにすめばありがたいのですが」)の一点張り、ついには食べることも拒んで死んでいく男である。「仲間たち」と組み合わせるのに、これほど不似合いな固有名詞もそうはない。
 86のセクションのなかで、何らかの意味で書くことを放棄した作家たちが取り上げられ、彼らが書かなくなるに至ったそれぞれの事情が語られる。なぜもう書かないのかと訊かれるたび「実はぼくにいろいろ話を語って聞かせてくれていたセレリーノおじさんが亡くなったんです」と答えたフアン・ルルフォ(沈黙歴三十年)、「英語を勉強したためにそれまで気にとめたことのなかった複雑な意味に敏感になって頭が混乱し、そのせいで書くことをやめてしまった」フェリーペ・アルファウ(沈黙歴五十一年)、「幻覚に陥りやすい彼の精神がさまざまな領域を彷徨した」のがおそらく原因で一行も文章を書かなかったソクラテス(沈黙歴一生)、十九歳で文学から遠ざかったランボー(沈黙歴約十八年)、そしてサリンジャー等々、まさにバートルビーの「仲間たち」が次々登場する。語り手自身、二十五年前に短い小説を出版して以来何も書かず、バートルビー同様「ぞっとするような事務所」で働いている。
 だが、「バートルビー」が「仲間たち」と組み合わされるのが似つかわしくないのと同じに、まあソクラテスのような対話の人はともかく、言及される作家の大半は世捨て人的な存在であり、彼ら同士があたかも「友達の輪」を形成しているかのように、たがいにゆるやかにつながる形で語られていくのも、妙といえば妙なのである。ほとんど自由連想のようにどんどん広がっていく、友達のいない人同士の友達の輪。これも不思議といえば不思議である。
 容貌も冴えず、もはや若くもない語り手自身のぱっとしない人生の記述にしても、ヌーヴォー・ロマンにかぶれて書けなくなったかつての女友達の話や、ニューヨークのバスの中でサリンジャーを見かけた体験(語り手はサリンジャーに声をかけるか、隣の美しい娘に愛を告白するかで迷いきってしまう)、単に愉快な挿話というだけで済ませられないものを感じる。
 これがたとえば、本書と同じく二〇〇〇年に刊行された、ブラジルの作家ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモの『ボルヘスと永遠のオランウータン』のように、ボルヘスや探偵小説に対するさほど屈託のないオマージュであれば、安心してニヤニヤしながら読んでいればいい。だがこちらは、扱っている主題自体は、書くことの不可能性、文学に対する根源的な懐疑、といったすさまじく重いテーマである。そして、呑気なゴシップと並んで、たとえばパウル・ツェランの名が挙がり、ツェランが「沈黙と破壊の時代にあって、教養とは無縁な傷口の中を掘り進むことしかできなかった」という指摘とともに、呑気さとは無縁のツェランの詩が引用されていたりもするのである。
 要するにこの語り手は、テーマの重みを自明視することだけは何としてでも避けようと思っているように読めるのである。少なくとも僕はそのように読み進んだ。念のため言っておくが、つまらないとか不快とかいうことではまったくない。むしろそれこそがこの作品の妙味だと言っているのである。世間ではとりあえず重たいということになっているテーマに関して、それが本当にどれくらい重たいものなのか、読み手が自分で一から問うよう促すには、重さを自明視したしかめっ面の語り方よりも、この一見おそろしく「適当」な語り方のほうがはるかに有効にちがいない。
 現代のスペイン語文学には、文学そのものを素材にした小説が多いように思える。それだけ、文学が切実に世界の一部だということか。英語文学を専門にしている人間としては、かなりうらやましい。

(しばた・もとゆき アメリカ文学)
波 2008年3月号より

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まとめテーマでくくる 本選びのヒント

立ち読み

 わたしは女性に縁がなかった。背中が曲がっているが、つらくてもそれに耐えるしかない。身内の人間で近しいものはひとり残らず死んでしまい、哀れな独身男としてぞっとするような事務所で働いている。そうした点を別にすれば、幸せに暮らしている。とくに、一九九九年七月八日の今日は、この日記を書きはじめたせいでいつになく幸せな気分にひたっている。この日記はまた目に見えないテキストに言及したメモ帳でもある。ページの下に書き込んだそれらのメモを通して、わたしがバートルビー的な人間の足跡をたどっていることが証明されればと期待している。
 二十五年前、まだ本当に若かった頃、不可能な愛をテーマにした短い小説を出版した。後ほど説明するが、その時のトラウマが原因で、作家になる夢を捨てて筆を折り、バートルビーのひとりになったのだが、以来バートルビー的な人間に興味を抱くようになった。
 われわれの知っているバートルビー族というのは、心の奥深いところで世界を否定している人間のことである。この名前はハーマン・メルヴィルの物語に登場する事務員、つまり代書人バートルビーからとったものである。バートルビーは読書どころか、新聞を開いているところさえ人に見られたことがなかった。彼は屏風の向こうにある、ウォール街のレンガ塀に面した青白い窓の前に何時間も立ったまま外をじっと見つめている。ほかの人のように、ビールや紅茶、コーヒーを口にすることもない。事務所で暮らしているので、決して外出することはないし、日曜日も事務所で過ごしている。自分が誰で、どこからきたのかについて何ひとつしゃべらないし、この世界に親戚のものがいるかどうかさえも打ち明けようとしない。どこで生まれたんですかと尋ねられたり、仕事を頼まれたり、身の上話をしてほしいと言われると、いつもこう答える。
「せずにすめばありがたいのですが」
 以前から、わたしは文学の世界においてバートルビー症候群におかされた数多くの亡霊たちを跡づけてきた。以前から、現代文学がかかっている病気、慢性的な悪弊、つまり一切を衝動的に否定したり、虚無に引きつけられる傾向を跡づけてきた。この病におかされたために、何人もの作家が厳格な文学的意識を持っているにもかかわらず(というか、おそらくはそれ故に)何も書けなくなってしまう。一、二冊本を書くのだが、やがて執筆から遠ざかったり、何の問題もなく書きはじめたのに、ある日突然文学的な意味で金縛りにあったようになって永遠にペンを捨ててしまうのだ。
 否定(ノー)の文学、バートルビーと仲間たちの文学を跡づけようという考えは、先週の火曜日、事務所にいるときに、所長秘書が電話口の向こうにいる相手に向かって次のように言うのを聞いたときに突然ひらめいた。
「バートルビーは只今会議中です」
 わたしはひとりでくすくす笑った。バートルビーが、たとえば重苦しい重役会議の席に座っているところなど想像できるものではない。けれども、一握りのバートルビーたち、つまり否定的な衝動という病にかかった作家たちを集めることならできなくはない――実を言うと、この日記、というかページの下にある余白でやろうとしていることがそれなのだ。
 所長の姓があまりにもよく似ていたせいで、「バートルビー」と聞き違えてしまった。しかし、この聞き違いはわたしにとってこの上ない幸運だった。というのも、そのおかげで急に目が覚めたようになり、二十五年間にわたる沈黙を破ってもう一度ペンをとってみようという気持ちになったのだ。作家の中には書くことを放棄した人たちがいるが、そうした作家の中からもっとも注目に値する例を取り上げて、それぞれに異なった最終的な秘密について書こうと考えた。
 そこで、現代文学に見られる否定の迷宮の中を、人を困惑させると同時にもっとも魅力に富んだ傾向が作り上げた複雑な小道を散歩してみようと心に決めた。その中に入ってゆけば、真の文学的創造に通じる唯一の道が見つかるかもしれない。そうすることで、書くというのがどういう行為なのか、それはどこにあるのかと自らに問いかけ、また書くという行為の不可能性について探り、世紀末の文学が置かれた予断を許さない――それだけにまたきわめて刺激的な――状況に関する真実を明らかにすることができるかもしれない。
 来るべきエクリチュールは、否定的な衝動から、否定の迷宮からしか生まれてこないだろう。しかし、そうなると文学はどうなるんだい? しばらく前に、同僚がいくぶん悪意をこめてそんなふうにわたしに尋ねてきた。
「知らないね」とわたしは答えた。「分かっていれば、わたしが書くよ」
 わたしに書けるだろうか。否定の迷宮の中を探ることでしか、来るべきエクリチュールに通じる道は生まれてこない、わたしはそう固く信じている。そうした道を暗示することができるだろうか。わたしは目に見えないテキストについて言及したメモをページの下の余白に書くつもりでいる。目に見えないからといってテキストが存在しないわけではない。というのも、その幻のテキストが来るべき千年の文学の中で宙づり状態で待機している可能性が大いにあるからなのだ。

     I

 ローベルト・ヴァルザー(1878~1956。カフカの師といわれる作家)は、何も書けないと書くこと、それもまた書くことであるということを知っていた。本屋の店員、弁護士の秘書、銀行員、ミシン工場の工員、そして最後にシレジアのある城の執事といったようにさまざまな補佐的な仕事に就いてきたローベルト・ヴァルザーは、ときどきチューリッヒにある〈失業者のための書記室〉(これ以上はないほどヴァルザー的な名前だが、これは実在の場所である)に引きこもって、古いスツールに腰をおろし、黄昏時に石油ランプの青白い光を頼りに、優雅な書体で筆耕の仕事、つまり〈バートルビー〉の仕事をしていた。
 筆耕をしていたというだけでなく、ヴァルザーの全生涯もまたメルヴィルの物語に出てくる人物、すなわち一日二十四時間事務所から一歩も外に出なかった書記を彷彿させる。ロベルト・カラッソは、ヴァルザーとバートルビーを取り上げて、一見地味で目立たない外見を装っているこうした人たちの内に、実は世界の否定という物騒な傾向がひそんでいるのだと述べている。破壊の風は、それが過激であればあるほど目につきにくく、バートルビー的人間を控え目な好人物とみなしている人たちに気づかれることもなく通り過ぎて行く。「多くの人にとって『ヤーコプ・フォン・グンテン』の作者で、ベンヤメンタ学院を発案したヴァルザーは――とカラッソは続けている――、今も親しみの持てる人物であり、彼のニヒリズムをブルジョア的で、スイス風の善意にあふれたものとみなすことも可能である。しかし、事実はまったく逆で、彼は遠い世界の人間、自然と並行して走る道、見分けのつかない境界線なのである。ヴァルザーはどんなことにも逆らわず、バートルビーはことごとく反抗するが、この両者はともに世界と完全に断絶している(……)。彼らは複写し、透明なシートのように自分たちを通過してゆく文書を書き写す。特別なことは一切口にしないし、何かを修正することもない。『わたしは進歩しない』とヤーコプ・フォン・グンテンは言い、『わたしは変化を望まない』とバートルビーは言う。この二人が似通っているということは、沈黙と、言葉を装飾的に用いることとが同じことなのだということを物語っている」
 否定の作家たちの中で、代書人部門とでも呼びうるセクションがもっとも奇妙で、おそらくわたしにいちばん大きな影響を及ぼしているのだろう。こんなことを言うのも、実は二十五年前に筆耕になるというのがどういうことなのかを身をもって体験したからなのだ。あの時は本当にいやな思いをした。当時わたしはとても若くて、愛の不可能性に関する本を出してすっかりいい気になっていた。まさかあのような恐ろしい結果が生じるとは夢にも思わず、父にその本を一冊送った。それから二、三日して、本を読んだ父が見るからに不機嫌そうな顔をして、自分の最初の妻のことをあしざまにののしっているのはけしからん、これから彼女に宛てた献辞を口述するから、この本に書き写すのだと言いだした。わたしは頑強に抵抗した。カフカがそうであったように、文学はわたしにとって父から独立するための唯一の手段だったのだ。

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