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ある犬の飼い主の一日

サンダー・コラールト/著 、長山さき/訳

2,145円(税込)

発売日:2023/04/26

  • 書籍

コロナ禍の読者に生きるよろこびを伝え、あたたかく励ました、オランダのベストセラー長篇。

中年男ヘンクは、離婚して老犬と暮らすICUのベテラン看護師。ある朝、散歩中にへばった老犬を素早く介抱してくれた女性がいた。その名はミア。人生の辛苦を人並みに経験してきたヘンクだが、久々にときめいている自分を発見する。一人の男が生きる喜びを取り戻していく一日をつぶさに描いた愛すべき長篇。リブリス賞受賞作。

書誌情報

読み仮名 アルイヌノカイヌシノイチニチ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Tatsuro Kiuchi/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 192ページ
ISBN 978-4-10-590188-2
C-CODE 0397
定価 2,145円

書評

我々は物語のなかに生きている

いしいしんじ

 主人公はヘンク。56歳。ICU看護師。アムステルダム近郊のウェースプに住まう。
 背は高く、離婚歴あり。一冊ごとに自分のなかのなにかが失われると感じていながら、それでも読まずにはいられない、筋金入りの愛書家。ともに暮らす、オランダ固有の犬種コーイケルホンディエのスフルク(ならず者、の意味)を溺愛している。
 14歳の姪ローザに、初体験のことを訊ねられ、「勇気をかき集め」訥々と話す。ICUで、盲目の患者にボルヘスを読み、パーキンソン病の患者には賛美歌を歌い、孫の誕生を待つ終末期の患者のため、かぎ針編みで赤ん坊の服を作る。
 散歩中、必死にスフルクを気にかけるヘンクを見て、初対面のミアは「どれだけ彼が大きいか、どれだけ心配しているか。彼の顔はまるで子どものための本のように、読むことができた。なんてやさしい人なんだろう」と思う。
 読んでいて、みんなヘンクが好きになる。好きになるように書いてある。正確には、著者本人が、ヘンクのことが好きで好きでたまらない。「いまヘンクはすっかり穏やかに眠っている」と著者は、ほほえみを湛えながら書く。「口がぽかりと開いている」「ヒゲを剃っていないので、くすんだ色のベールが頬に広がり、よだれの筋がそのあいだを川のように流れる」「もう一度、言おう。ヘンクがこの自分の姿を見ずに済むのは幸運だ」。
 ヘンクばかりではない。ローザもミアも、離婚したリディア、もと同僚のマーイケ、口うるさい弟フレークさえ、著者はいとおしさをこめて書く(犬のスフルクはもちろん!)。彼ら全員の、この一日の物語を、一秒一秒、大切にしたためる。
 この物語自体。さらに、「書くこと」をこそ、著者は全身全霊、命がけで愛している。ヘンクが読書狂なのは、その裏返し。サンダー・コラールトは、犬を愛するように、小説を愛する。小説のほうも、コラールトとともに歩み、コラールトとともに食べ、コラールトとともに眠る。コラールトが呼べばいつだって彼の胸へいっさんに帰ってくる。
 ヘンクとミアの、再会の場面。「この後、会話がどうつづいていくか、我々は知っている」「ふたつの人生、ふたつの物語が結びつけられなければならない」「見る、匂いを嗅ぐ、感じる、推測する、想像する、評価する」「ミアのほうがヘンクよりもうまくできる」。小説にわりこんでいるようで、著者の「声」はあたたかく、ふたりの呼吸を絶妙なリズムで結びつける。まさしく子どものための本のように。こんな風に書いてもらい、小説が嬉しそうにしっぽを振っているのが目にみえる。
 語る、だけでなく、ときに歌う。小説の時間がふくらみ、一日をこえてはみだしてしまうときがある。「ローザはヘンクのそばにいるだろう。彼が九十三歳の高齢で、冬の終わりに亡くなるときに」「彼の痛みがひどいことに気づいて、彼から指示されていたとおり、自らモルヒネの量を増やすだろう」。
 犬の死も語られる。あまりにも正確に、あまりにも誠実に。ヘンクも、ローザも、ミアも、スフルクも、未来のいつか死ぬ。そしてわたしたちも。
 ふと思い当たる。わたしたちも、いつか死ぬことを知っている。その死を、時計の文字盤を逆回しにするように巻きあげ、わたしたちは今日一日を生きる。小さな物語を積み、誰かの物語と交差させ、たまに結びつけて、その日まで、声を、ことばを重ねてゆく。
 ちょうどオランダのひとびとが、日一日、海水をくみあげながら、いつか必ず水没する土地に暮らしつづけているように。だからユーモアが必要だ。だからこそ自由なのだ。未来まで一気に飛び、すぐにまた一瞬で、たったいま、ほかに替えがたいこの瞬間に帰ってくることができる。心臓はポンプだ。血をくみあげ、血を送り、ひとりひとり特別なリズムで今日の時を刻むのだ。
 そして、なにより大切なこと。
 ヘンクはローザに話したことがある。我々は物語を語る、と。我々は、物語のなかに生きている、と。
 そのとおり。ヘンクもミアも、ローザもマーイケも、もちろんスフルクも、この小説のなかに、いつだって生きていること。しっぽを振り、よだれを垂らし、生を凝縮したこの一日に、一個いっこの心臓を、鐘のように高らかに打ち鳴らしつづけていること。

(いしい・しんじ 作家)
波 2023年5月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Ishii Shinji いしいしんじ

犬は小説に似ている。必ず、戻ってくる。もう、いなくなってしまった、と思っても、秘められた言葉をくわえ、きっと戻ってくる。ヘンクもそんな犬、スフルクを飼っている。初対面のミアはヘンクの表情を「子どもの本のように」読みとる。「なんてやさしい人なんだろう」。登場する人間、動物、音楽、川、風を、著者は愛す。病や二日酔いまで、大切に描く。この一冊自体、愛情を注がれた、子犬のような本だ。そして、ヘンクのような愛書家なら知っている。大切なことはすべて、そんな一匹のなかに、惜しみなく記されてあることを。


▼De Libris Literatuur Prijs リブリス文学賞 選評より

コラールトはまるで読者と楽しくお茶でも飲みながら会話をするように書く。だが読者はすぐにその居心地のよい口調、軽快な文章の裏に隠されているものの存在に気づく。これはより洗練された文学であり、注意して読む必要がある、と。


▼Trouw トラウ紙

サンダー・コラールトは迷いながらも懸命に生きる人間をもっとも美しく描く。


▼de Volkskrant デ・フォルクスクラント紙

この本は小さな宝石だ。不穏な2020年に、実直な五十代の男性が主人公の、人生には価値があるということだけをメッセージとする知的で陽気な小説がリブリス文学賞を受賞した。

著者プロフィール

1961年、アムステルフェーン市に生まれる。アムステルダム自由大学で歴史学専攻ののち、医学関係の出版社に勤務。2006年、スウェーデンに移住。スウェーデン人の妻と3人の子どもとともにストックホルム近郊に暮らす。短篇集『あなたの愛する人の瞬時の帰還』により、2014年、ファン・デル・ホーフト賞受賞。2020年、『ある犬の飼い主の一日』により、権威あるリブリス文学賞を受賞。

長山さき

ナガヤマ・サキ

1963年神戸生まれ。関西学院大学大学院修士課程修了。文化人類学を学ぶ。1987年、オランダ政府奨学生としてライデン大学に留学。以後オランダに暮らし、2023年12月現在アムステルダム在住。訳書にトーン・テレヘン『ハリネズミの願い』『きげんのいいリス』『キリギリスのしあわせ』『おじいさんに聞いた話』、ハリー・ムリシュ『天国の発見』『襲撃』、ペーター・テリン『身内のよんどころない事情により』、サンダー・コラールト『ある犬の飼い主の一日』ほか。

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