ヒトハシヌカライキラレルノウカガクシャトゼンソウノモンドウ
人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答―


茂木健一郎 南直哉

脳と仏教の真剣勝負。

我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか――。人類誕生以来、問われ続けてきたアポリア(難問題)に、脳科学者と禅僧が挑む。死はすべての者に平等に訪れる。けれど誰もが望んでこの世に生まれてくることはできない。つまり、「私」に根拠はないのだ。だからこその苦、だからこその人生。それでも、その苦しみを引き受け、より良く生きるための方法はある。無常の闇に射す一筋の光明を探すため、存在を賭けた脳と仏教の真剣勝負。

発行形態 : 新潮新書
判型 : 新潮新書
頁数 : 189ページ
ISBN : 978-4-10-610307-0
C-CODE : 0215
整理番号 : 307
ジャンル : 哲学・心理学・宗教・歴史
哲学・思想
発売日 : 2009/04/15

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茂木健一郎
モギ・ケンイチロウ

1962(昭和37)年、東京生れ。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部卒業後、同大大学院物理学専攻課程を修了。理学博士。理化学研究所、英ケンブリッジ大学を経て現職。クオリア(意識のなかで立ち上がる、数量化できない微妙な質感)をキーワードとして、脳と心の関係を探求し続けている。2005(平成17)年、『脳と仮想』で小林秀雄賞、2009年『今、ここからすべての場所へ』で桑原武夫学芸賞受賞。他に『脳とクオリア』『「脳」整理法』『ひらめき脳』『芸術脳』『人は死ぬから生きられる』(共著)など著書多数。



南直哉
ミナミ・ジキサイ

1958(昭和33)年長野県生れ。禅僧。早稲田大学文学部卒業後、サラリーマン生活を経て、1984年曹洞宗で出家得度。同年、福井県の大本山永平寺へ入門。2003(平成15)年まで約20年の修行生活をおくる。2005年から青森県恐山の院代(山主代理)に。福井市霊泉寺住職。著書に『語る禅僧』『日常生活のなかの禅』『「問い」から始まる仏教』『「正法眼蔵」を読む』『なぜこんなに生きにくいのか』、共著に『人は死ぬから生きられる』など。

星の友情――茂木健一郎
I 無記の智慧
坐禅とクオリア/説明不足の仏教/悟りが最終目標ではない/「答え」より「問い」/科学と宗教の役割/言うべきか、言わないべきか/「無記」の思想/恐山と九十五歳のおばあちゃん/現実と仮想/言語と体験の間/仏教にヒューマニズムはない/苦しいけれど生きていく
コラム「恐山探訪記」――茂木健一郎
恐山の禅僧・南直哉師/死者の「好意」が宿る場所/そして過去は死者へとつながる
II 脳の快楽、仏教の苦
裸になれる場所/恐山の日常/「信じる」とは何か/脳と身体の矛盾/「自分が自分である」根拠はあるのか/航海者と漂流者/「中心」が忘れているもの/存在の根拠としての欠落/生き方を変えない限り考え方も変わらない/なぜ自分は今、ここにいるのか?/修行僧の見る月/脳の快楽、仏教の苦/人生は「苦」である
III 人生は「無常」である
クオリア、仮想、偶有性/「疑団」の破裂/偶有性の反意語/生と死のリアリティ/世界を引き受けるということ/生の現場に寄り添う/私は私を始められない/「あなた」がいて「わたし」がいる/生きている限り安心立命はない/人生を質入れしない/生きていることはまがまがしい/「蓮を咲かせる泥になりたい」/断念せよ、そこから始めるしかない/人生の負債を背負う/ブッダが追求したこと/星の友情
悦楽する知――南直哉


恐山と言えば……

 南直哉さんが院代(山主代理)を務める、青森県むつ市にある霊場・恐山。おそらく多くの人が、恐山と聞いて思い起こすのは、イタコの存在ではないでしょうか。しかし、イタコが恐山で口寄せをするようになったのは、昭和三十年代からと、意外と歴史は浅いのです。また恐山を管理しているのは、恐山菩提寺という曹洞宗のお寺であり、いわばイタコはそこに「間借り」しているだけなのです。ちなみに、イタコは毎日恐山にいるわけではなく、基本的に夏と秋に行われる大祭のときだけ。口寄せをお願いする場合は、呼び寄せたい故人の名前と生年月日が必要なようです。
掲載:2009年04月24日
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