エンジェル エンジェル エンジェル




 自分の常日頃の情緒不安定さかげんが、カフェインの過剰摂取によるものではないかと思い付いたのは、私には革命的な出来事だった。
 中毒だったのだ。
 目から鱗が落ちたようだ。
 その考えは、ある深夜、というか、まだほの暗い早朝、五杯目のコーヒーを飲んでいて、ふと、何の脈絡もなしに頭に浮かんだ。
 この世からコーヒーがなくなってしまったら一体私はどうなるんだろう。
 コーヒーを飲まない朝なんて考えられもしない。実をいうと、日に三十杯はゆうに飲む。一度、豆も粉も、紅茶の葉さえ切らしていたことがあって、それはみじめな思いをしたことがある。
 体はだるくて、動くのもおっくうになり、考えはまとまらず、なかなか焦点を結ぼうとしない。人と会っても挨拶すらろくに出来ない。極端に下がった覚醒レベルは、表情さえ虚ろに固定させた。
 思えばあれは禁断症状ではなかったか。そう考えれば、すべて納得いく。
 意味もなくいらいらしたり、泣きたくなるのも。
 じっとしていると焦燥感で手に汗すらにじむのも。
 座っていることも、立っていることもできなくて、身の置きどころのなさに、唇までふるえてくるのも。
 何といってもいけないのは、やたらに悲観的になったり攻撃的になったりすることだ。しかもその攻撃は、私の場合、ほとんどが結局は自分に向かう。批判の鋭い矢が情け容赦なく内部に突き刺さる。自分で自分の傷を猟奇的に深くして覗き込んでいくような性癖がある。
 最後はいつも自己嫌悪の激しい嵐が吹き荒れて、それが過ぎ去るまでは身を硬くして待つしかないのだけれど、何か救いの道がほかにないかといつも思う。
 最近の私の聖書へののめり込みようは、多分、そのせいかもしれない。大学すら宗教関係で選びたいと思っているほどだ。
 中毒だったのだ。
 カフェインで不安定になった情操が安寧を求めようとして、勢い、神様に向かったのだ。
 ……うべなるかな……
「やられている」と表現してもいいかもしれない。アルコールに「やられる」ことがあるように。
 カフェインに「やられている」。
 神様に「やられている」。
 ……酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲むものよ。泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたの口から断たれたからだ、か。ああ、まいったなあ。
 私はベッドの上にひっくりかえった。外に向けて放つはずの矢が、結局いつも自分に向かう。
 例えば昨日は、学校で教師の言ったことにきちんと反論できなかった。どう考えてもその教師は保身のために言っているとしか思えないのに。
 生徒自身のため、とふた言目には言いながら、あなたの言っていることは結局自分自身の評価のためではないか、欺瞞だ、と喉まで出かかっている言葉が言えなかった。
 それは、私自身の保身から言えなかったのだ。それを言ってしまった後の、自分の身に降りかかる敵意と、それから被る不利益を計算して。結局、軽蔑するところのあの教師と、まったくいっしょではないか。
 落ち着くところはいつも自己嫌悪だ。そして、もともと他者に向けてセッティングしたはずの攻撃が、その同等の激しさで自分を責め苛む。いつものパターンだ。
 やっぱり、熱帯魚だ。私には神経を落ち着かせる何かが必要だ。薬物ではなくて。神様でもなくて。どちらも依存が過ぎると危ない。その点、熱帯魚になら依存してもあまり実害がなさそうだ。
 そうだ、そうして健全な精神の緩やかな回帰を目指すのだ。
 私はじっとしていられず、上半身を起こした。
 しかし、この切羽詰まった必要を、どうやってあの母親にわからせよう。
 今まで、親の前では物わかりのいい優等生をやりすぎていた。この不安定な精神状態を、小出しにしながらでも披瀝していった方が、親の覚悟も徐々に決まり、ショックも少なくてすむだろうか。そうしておいて、熱帯魚にかける私の切実さをわかってもらおうか。……いや、もっと他に方法はないものか。親に自分の本当の姿を知らしめるなんて、それに払われるエネルギーの膨大さを考えると――私の側からにしても、親の側からにしても――気が遠くなりそうだ。
 思案にくれつつ、私は階下に降りた。
 家中寝静まっている。
 私の通っている学校は、補習や宿題の多さで有名な進学校だった。
 体力がないので学校から帰ると疲れ果ててそのまま寝てしまう。気が付くといつもこんな時間。三時か四時。ママも心得ていて、私の分だけ夕食を食卓に残してある。
 だが今日はいつもより早く寝覚めた。まだ二時半だ。廊下の奥に微かに明りがともっている。奇妙な節の呟き声も聞こえる。
 ……あれ、何だろう。
 暗闇の中で蠢く気配。だんだん近づいてくる。廊下の電燈がつく。ばあちゃんとママだ。
「どうしたの?」
 私は思わずかすれた声をかけた。
「あら、あなた、今夜は早かったのね」
 ママが虚ろな声で返事にならないことを言った。
 奇妙な呟き声はばあちゃんの口から洩れていたものだった。
 ……唄ってるんだな。
 私は見当をつけた。
「これからトイレなの」
 ようやく、返事がかえってきた。
「毎晩、今ごろ? 大変だねえ、ママ」
 私は口先だけでなく深く同情して言った。こんなこと、知らなかった。
「ほんと」
 ばあちゃんが、真顔で同意した。私は吹き出しそうになった。それから、急に思い付いて付け加えた。
「あのさあ、それ、私、やってあげるよ。明日から。ママ、寝てる途中で、一度起きるのって大変でしょ。私、ちょっと早く起きればすむことだから」
 ママは何も言わなかった。
 ……あれ、もしかして、泣いてんのかな。
 私は慌てた。ママも情緒が安定しているとはいえない質だった。
 ママとばあちゃんは離れられない二本の木のようにトイレの方へ去っていった。しばらくして、トイレの方から声がした。
「ありがとう、コウコ。じゃあ、明日からお願いするわね」
 私の予期しないことだったが(少なくとも意識的には)、次の日、熱帯魚飼育の許可が降りた。

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