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なんとなくな日々
川上弘美

春の宵には、誰もいない台所で冷蔵庫の小さな鳴き声に耳を澄まし、あたたかな冬の日には、暮れに買い置いた蜜柑の「ゆるみ」に気づく。読書、おしゃべり、たまの遠出。日々流れゆく出来事の断片に、思わぬふくよかさを探りあてるやわらかいことばの連なりに、読む歓びが満ちあふれます。ゆるやかにめぐる四季のなか、じんわりしみるおかしみとゆたかに広がる思いを綴る傑作エッセイ集。

ISBN:978-4-10-129238-0 発売日:2009/03/01


| 380円(定価) |
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なんとなくな日々
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台所の闇
春の夜はおぼろに潤んでいる。潤んだ空気の中、家にひとりいると、ぼうとした心もちになってくる。ぼうとしたまま台所へ行ったら、見知らぬ生き物の毛らしきものが落ちていた。薄茶の短い毛が、数本かたまって、ある。家には毛のある動物を飼っていない。妙に思ったが、そんなことも春の夜にはあるかもしれぬとさほど不思議にも思わず、片づけた。翌日も毛は落ちており、何回片づけても夜になれば同じ場所に同じくらいの本数が律儀にある。家に住む知らぬ生き物が何かを言いたくて落としていくのかもしれない、祈りを捧げろだの夜の間に三角おむすびをきっちり十二個置いておけだの春分のころには東から嵐がやってくるから気をつけろだの、そんなことを示したくて毛をしるべに置くのかもしれない。あれこれ考えて愉しんだが、なんのことはない、古くなった柄つきたわしから落ちた毛なのであった。木の葉髪のように、あるときになるとたわしもはらはらと毛を落とすことを、初めて知った。
台所ではときおり妙なことが起こる。先日も真夜中書きものをしていると、背後から音が聞こえた。背後とは、台所である。きゅうううう、という大きな鳴き声みたいなものが聞こえたのであった。かなしそうに、鳴き声はなりひびく。これには聞き覚えがあった。冷蔵庫の鳴き声なのである。冷蔵庫の扉をぴったりと閉めずにしばらく置いておいた後に、気づいて閉めると、この音がする。さもかなしそうな鳴き声である。閉めてほしかったのですよう、せつなかったですよう、そんな気持ちのこもったような鳴き声である。ただし先日は閉め忘れてなどいなかった。扉はたしかにぴったりと閉じられてあった。それでも鳴くとは、何が言いたかったのか冷蔵庫よ。夜中でさみしいのですよう、冷えつづけることもせんないものですよう、そんなことを言いたかったのか。それとも、遊びをいたしましょうよう、春だからうきうきいたしましょうよう、そんなことを言いたかったのか。鳴き声は五分ほどでおさまった。
台所が、と、友人がひどく真面目な思いつめた顔で切り出したこともあった。台所、ときどきこわいの。わたしはね、もののしっぽがこわいのです。ねずみのしっぽもトカゲのしっぽも猿のしっぽも、猫のしっぽだって、こわい。それだけなら、まだいいのだけれど。そこで友人は口をいったんつぐみ、聞いている人がまわりに誰もいないことを確かめるような素振りをしてから、続けた。じつはね、動物のしっぽだけじゃなくて、植物のしっぽもこわい。
植物? 聞きかえすと、植物、と答える。大根のね、しっぽ。ごぼうのね、しっぽ。まな板に載せて、きゃあって言いながら、切り捨てるの。切り捨てるその瞬間がいちばんこわい。でもしっぽがついたままじゃおそろしくて調理できないから、仕方なく切り捨てるの。そういうことをしなければならない台所が、わたしはこわいのです。春の夜に、友人は自分でいれた熱い中国茶を勧めてくれながら、この話をした。友人の台所は清潔に片づけられていた。清潔な台所のごみ箱には、それでは今もいくたりかのしっぽが横たわっているのだろうかと思いながら、中国茶を飲んだ。
台所には台所の神がいたり、台所は生と死に深くつながる場所だと言われたり、なるほど台所は便所と同じく特別な場所なのだろう。いちにち家の中にいて夜が来ると、自然に気持ちが台所に向かうことがある。何かをつくったり洗ったりするというわけでもなく、台所にただ佇んでじっとしていたいような心もちになるのである。冷蔵庫がぶうんと唸る音を聞いたり、電子レンジの時計の表示がぷつんぷつんと移りかわっていくのを眺めたり、湯わかしのかすかな炎の音を聞いたり、棚の上にいつもある大きな鍋を見つめたり、ただそんなことをしたくなるのである。
昔の日本の家は、今よりもずいぶん陰影に富んでいて、その中でも台所はさらに土に近い場所だった。今の台所は土からずいぶん遠くなった。それでも、土から来たものがここで煮たり焼いたりされ、野を駆けていたものがここで切りひらかれる。ほんとうはそんな実感などなしに、包丁を使ったり火を使ったりしているのであるが、実感はなくとも気持ちの奥ではそれを知っているのに違いない。ものみな萌え出づる春ともなれば、土の記憶は常よりも鋭く身の内によみがえるのに違いない。
それならば、春の夜ひとりでぼうとしているときに台所に呼び寄せられることは、不思議でもなんでもないことであろう。春の昼に電車に乗っていると、窓外の大気の中にたましいだけが飛んで行きそうなうっとりとした感じになることと同じく、春の夜には台所に招かれるものなのであろう。招かれたなら、台所の神にていねいに挨拶して、闇に遊ぼう。魍魎や怪異のたぐいが、柄つきたわしや冷蔵庫の影の中から、ほんの少し匂いたってくれるかもしれない。

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