永遠の別れ

 一九九七年五月二十四日、土曜日、午後一時四十分。
 私たち夫婦は居間のソファーに腰を掛け、テレビを見ていました。
 仕事帰りの私は、午後一時過ぎに家に帰りついたばかりでした。
 子供たちはすでに大好きなカレーライスで昼食を済ませており、私は妻と二人分の竹の子弁当を近所のお弁当屋さんで買って帰り、この時、食べ終わっていました。
 淳はNHKの“毛利元就”の再放送を見ていたようです。淳は、二年前の大河ドラマ“吉宗”を見て以来、時代劇が大好きになり、いつも土曜日は大河ドラマの再放送を楽しみにして見ていました。
 中学二年生の敬は、テーブルの椅子に座って、本を読んでいました。わが家にとっていつもと変わらぬ土曜日の午後でした。
「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」
 ソファーのうしろの六畳間から淳の声が聞こえました。いつの間にか居間のうしろの部屋でジグソーパズルを始めていたようです。
「寒いから、ジャンパー着ていきなさい」
 この日は比較的肌寒い日で、妻はいつも淳が着ているウィンドブレーカーを着ていくよう、声をかけました。
 まもなくバタンとドアの閉まる音がして、淳は家を出ていきました。
 私たち家族は、この時、誰も淳の姿を見てはいませんでした。
 これが、私たち家族と淳との永遠の別れになってしまいました。
 私は午後三時から始まる研究会に参加するため、バスに乗って出かけていきました。
 この研究会は、“関西アンギオカンファレンス”という会で、血管造影による画像診断をはじめとして、CTスキャン、MRIなどを含めた総合画像診断の研究会で、関西全域から放射線科医が集まってくるものです。
 この日は、大阪の新大阪駅近くの製薬会社の本社ビルの講義室で開かれました。
 研究会が終了したのは、夕方五時半頃になっていたでしょうか。
 研究グループの後輩でもあり、飲み友達でもある神戸大学医学部附属病院の松本先生と神戸三宮までもどり、六時半頃、いきつけの店“賀茂鶴”に食事に入りました。
 その食事が終わりかけた八時前頃でした。突然、私の携帯電話が鳴り響いたのです。
 電話は、妻からでした。
「淳がまだ家に帰ってこないの」
 切羽詰まった声が電話の向こうから聞こえました。心配そうに妻が続けました。
「五時半になっても帰ってこなかったから、お父さんの家に電話したんだけれど、今日は来てないって。六時まで待ってたけど帰ってこなかったから、近所の人たちにも手伝ってもらって捜してるんだけど、まだ見つからないの」
 不安な様子で一気に妻は話しました。
 淳が八時になっても帰ってこない――ことの重大性はすぐに呑み込めました。
「タクシーで今からすぐ帰る」
 私は、一緒にいた松本先生に事情を話してすぐ店を飛び出しました。
 いつの間にか降りだした雨の中を中山手通りまで走り、タクシーを拾って友が丘の家に向かいました。
 淳は知的発育障害はありますが、記憶力や方向感覚は優れており、一度、いったことのあるところなら、普通に歩ける状態でさえあれば、絶対に家に帰ってくることができます。また、絶対に明るい時間帯のうちに帰ってくる子でした。
 特に、土曜日の午後五時からは、淳が欠かさず見ているテレビ番組“日本昔ばなし”があります。淳がこれを見るのを忘れて家を出たままになるはずがありません。
 私の頭の中に「事故」という言葉が浮かびました。
「住宅街の中で急に飛び出した車にはねられ、運転手がそのまま淳を連れ去ったのではないだろうか」
 どこか危険なところに転落したとか、はまりこんでしまうなどということも考えられますが、淳はかなり慎重な性格です。その確率は非常に低いものと思われました。
 私は医者とはいえ、一公務員であり、特に高収入でもありませんし、また家も裕福といえるほどの経済状態ではありませんので、通常の“誘拐”については、まず除外できると思いました。
 午後八時半過ぎに家につきました。
 近所の方々も一緒に捜してくれていましたが、いまだに淳は見つかっていませんでした。
 妻は、
「斉藤さんのところに電話したけど“今日は来てない”っていうし、それからAさんの家にも電話したけど、“最近は来ていない”っていうことなの。同じマンションの人たちにも手伝ってもらって捜したんだけど、まだ見つからないの」
 と、心配そうに話しました。斉藤さんの息子さんたちは、敬と淳の同級生でした。しかも、同じマンションの住人で、母親同士もよく行き来している仲でした。
 Aさんの家も、息子ふたりが同級生でした。庭で亀を飼っていて、淳がたまにその亀を見せてもらいにいっているとのことでした。私は、
「もう一度念のために家の中にいないかだけを確かめて、それから警察に連絡しよう」
 といいました。
 妻も私と同じように事故の可能性が大きいと考えていましたので、私の意見に賛成しました。
 知らないうちに帰ってきて、押入れの中にでも入りこんで淳が寝込んでしまっている可能性もないとは言えません。万が一のために、家のすみずみを妻と二人でもう一度、見てまわりました。
 当然、いるはずもありません。
 そして須磨警察に電話をかけたのは午後八時五十分頃のことでした。
 淳がまだ帰宅しておらず、近所の方々にも手伝ってもらって捜したがみつからず、また、通常の状態であれば絶対に明るい時間帯に家に帰ってくる子供である、ということを伝えました。
 この三月に起こった竜が台の女児殺傷事件もまだ解決していなかったこともあったのか、警察の方もすぐに対応してくれました。
 まもなく、須磨警察の方が家にやってきました。
 いなくなった時の状況や服装などについて話を聞いたのち、かなりの人数で周辺一帯を捜索してくれました。
 私は家にいても落ちつかないので、懐中電灯を持って徒歩で五、六分のところにある北須磨公園の周囲を捜しまわりました。
 北須磨公園は、公園の入り口にパンダの像があるため、子供たちの間で“パンダ公園”と呼ばれているところです。
 この公園やすぐ近くにある児童館は、淳が遊び慣れた場所です。
 もちろん、このあたりはすでに捜し尽くしたあとで、淳が見つかるはずがありません。
 私は、その後、神戸の大震災の時に買ってしばらく通勤に使っていたスクーターを駐輪場から引っ張りだしてきました。
 そして、友が丘地域、多井畑東町、菅の台、竜が台や白川台にかけて、懐中電灯を片手に走りまわりました。
 植え込みの間や溝の陰を懐中電灯で照らし出し、ひたすら淳の姿を捜し求めました。
 途中、バイクに乗って捜してくれているPTAの父兄の方と何度もすれ違いました。
 夜遅くなっているのに、
「もうちょっと頑張って捜しましょう」
 と、その方はいってくれました。
 心配で落ち込んでいた私は、この言葉にどのくらい励まされたか知れません。
 もう時間は夜十一時を過ぎていたでしょうか。
 一度、家に帰った私は、今度は車に乗り換え、妻と二人で友が丘の中の公園を中心にもう一度、捜しまわりました。
 家に帰ると、警察の人が、
「周囲や名谷からの道も捜したが見つかりませんでした。今日はもう遅いので、明日、人数を増やして捜索します」
 といって、引き上げていきました。
 でも、家族はただ淳のことが心配で、眠れるような状況ではありません。
 その時、夕方からずっと捜しまわってくれていた七十一歳になる私の父が、
「スイミングスクールにいっている時、いつもスクールの窓から見える工事現場のクレーンを淳がよく見ていた。もしかしたら、そこにいっとんのやろか」
 といいました。
 淳は、毎週月曜日と木曜日に名谷にあるスイミングスクールに通っていました。おじいちゃんはその送り迎えをやってくれていたのです。
「もう遅いけど、最後にそこを捜してみよう。じいちゃん、一緒に行こう」
 と、私は父と車に乗りました。
 父が話した場所は、名谷駅の東側の公団マンションの建築現場でした。
 そこは、周囲に塀が張りめぐらされており、誰かが入れるようなところはありません。私たちは、周囲の通路や溝を見てまわりましたが、淳は見つかりません。
「もしかしてバスに乗ったんかもしれへん。ついでやから、妙法寺から須磨の方へもいってみよう」
 私は父にいいました。
 地下鉄妙法寺駅、須磨駅周辺、さらに山陽電鉄の須磨浦公園駅まで足を延ばしました。
 不安はどんどん胸の中で広がり、押しつぶされそうな圧迫感を感じていました。
 帰りに奥須磨公園周囲にも立ち寄りましたが、やはり見つかりません。
 私たちは疲れ果て、自宅マンション近くまで帰ってきました。
 私は、父に、
「本当に今日最後やから、“タンク山”にいってみよう」
 といいました。
 サラリーマン生活を長く続けた父が一戸建てを買って、この友が丘に移り住んできたのは一九六八年のこと。まだ中学生になったばかりの私は、その頃、何度かタンク山に登ったことがありました。
 名前の由来となったあの水道タンクは当時からあり、この名称ですでに地元の住民に親しまれていたものです。
 私と父は車を降りて、コンクリートの四角いブロックでできた“チョコレート階段”と呼ばれているタンク山の登り口を上がり始めました。
 懐中電灯を手にした私と父は急なチョコレート階段を上がりきり、水道タンクへの道路に出ました。
 時間はもう午前二時を過ぎていて、街の灯はほとんど見えません。静まりかえったタンク山で、父と私の二人の息づかいだけが聞こえました。
「やっぱりおれへんなあ」
 父と私は、深いため息をつきました。
 道の終点であるタンクのところまでいって、私たちは帰ることにしました。
 あとで知ったことでしたが、実は淳はその時、“すぐ近く”にいたのでした。