東京タワー



「雪って大好き」
 駅に続く道を歩きながら、はしゃいだ声で由利は言った。
「寒いから、いつもより余計にくっつけるでしょう?」
 ダウンジャケットを着た耕二の腕に、ぎゅうぎゅうしがみつきながら歩く。
「ひとみちゃんの彼氏は雪が降ると眠くなるんだって。一日中寝ていて、学校にもいかないらしいよ」
 寒さで鼻を赤くして、たのしそうにそう言った。こいつはどうしてこういつもいつもたのしそうなんだろう。耕二は不思議な気持ちで考える。授業がおわってからバイトにいくまでの、短い時間にアパートで抱きあって、それから駅まで歩いていくあいだじゅう、ひっきりなしに喋っている。
「あー、お腹すいたね」
 お腹がすいた、ということさえ嬉しそうだ。
「グラタンパン食べたいな」
 耕二は由利とけんかをしたことがない。由利は喜美子のように突如キレたりしないし、由利の機嫌をとるのは、耕二には簡単なことに思える。それはやすらかなことだった。券売機で由利に切符を買ってやり、自分は定期をだして改札を通る。
 あたりはすでに暗くなっていて、プラットフォームの蛍光灯のあかりが、傘のつくる水たまりを黒々と照らしだしている。のぼりの電車はすいている時間だ。
 耕二は、自分が目の前に立っている中年のおばさんの後ろ姿を、なんとなくじっとみつめていることに気づいた。そういうことが、最近、よくある。どんなおばさんでも、一応女にみえるのだ。病気かもしれない、と思う。
「だからね、耕二くんも今度うちの学校の学食に来てみて。絶対わかんないよ」
 由利は熱心に喋っている。
 喜美子さんと別れればいいじゃないか。このあいだ透はそう言った。事もなげに。信じられない無神経さだ、と、耕二は思う。透は賢いが、ひどく鈍感なところがある、と。
 アナウンスに続き、角ばった電車がすべりこんでくる。
「みて! まっ白!」
 電車に積もった雪をみて、由利がまた歓声をあげた。

 ピアニストは、たしかに育ちすぎた子供のようにみえた。詩史さんによればまだ三十代らしいが、はげかかっていて、少々太りすぎてもいる。「数学的な演奏」についてはよくわからなかったが、人間の指とは思えない速さと強さで鍵盤をたたく演奏家だ、ということはわかった。
 詩史と音楽を聴くとき、透は自分が空洞だったことがわかる。自分は音楽になどさして興味はないのに、自分の身体が音楽をひどく欲していた、と感じる。すると詩史とピアニストは結託して、透のその空洞を美しい音でみたす。
 アンコールが終わり、会場に電気がついても、透はしばらくすわっていた。詩史が先に立ち上がり、透の手をひっぱって立たせた。
「おもしろかったわね」
 やや興奮した口調でそう言った。
「彼の演奏を聴くとエネルギーが湧くわ」
 と。
 おもてにでると、雪はまだひどく降りしきっていた。一ひら一ひらが小さく、強い風と共に、ふきつけるように落ちてくる。
「ああ、気持ちいい」
 詩史は言い、手に持っていたコートを着た。
「ホールの中、ちょっと暑かったわね」
 京葉線が不通になっている、という貼り紙の貼られた立て看板をみても、透は気にしなかった。どっちみち、詩史はいつもタクシーに乗る。
 隣接するホテルのタクシー乗り場は長蛇の列だった。しかもタクシーは一台もいない。詩史はほんのすこし眉をひそめた。
「これだから街の雪は嫌よ」
 携帯電話をとりだして、直接タクシー会社に電話をかける。透はそばに木偶のようにつっ立って、いっこうに止む気配のない雪をみていた。これだけ降りしきっていても、街の雪は水っぽい匂いがする、と思う。その匂いが、しかし透は嫌いではない。
「役に立たないったら」
 詩史は言い、携帯電話をポケットにしまった。車は当分つかまらないらしい。透は嬉しかった。
「並んどく?」
 行列のうしろに向かいかけると、詩史はおどろいたように、
「冗談じゃないわ」
 と言う。
「中に入りましょう。凍えちゃうわ」
 それで、再びバーに入った。今度は、バーの中は人口密度が高かった。帰れなくなった人間たちが、腰を落ち着けたり時間をつぶしたりしている。
 詩史はウォッカを、透はバーボンのオンザロックを注文した。
「何か食べる?」
 透は首を横にふった。腹は減っていなかった。それよりも、当分ここに詩史と閉じ込められているのだ、という状況に高揚した。たまたまおなじ場所に居合わせた、他の客たちにまで親しみを感じる。おもしろくなりそうな夜だ。
「陽子さんに電話しとく?」
 詩史が遠慮がちに尋ね、透はやや興がそがれた。
「いいよ、べつに」
 磨き込まれたカウンターに、頬杖をついた。
「きれいな指」
 微笑を含んだ声で、詩史は言った。
「どきっとしちゃうわ」
 ウォッカを一口啜り、おいしい、とつぶやく。店の中は暖かく、騒々しい。ただ、その騒々しさは会話の一つずつが聞こえるような類のものではなくて、店全体で一つの騒音をかもしだしているような、悠長で穏やかなものだった。
「煙草、一本もらってもいい?」
 透は言った。煙草は、高校生のころに一時期喫っていた。とくにうまいものでもなかったし、なんとなくやめたが、ふいに喫ってみたくなった。
「どうぞ」
 さしだされ、一本ぬきとった途端に後悔した。持ち方がぎこちなくないかと気になったのだ。もっとも詩史は気にもとめていないようで、身体をねじって店の奥を見やり、
「お部屋、あいてるのかしら」
 と、言った。お部屋。透は、自分でも思いがけないほどその言葉に動揺した。
 詩史と、朝まで一緒にいたことは一度もない。肉体関係はあっても、それは夜の果てのごく短い時間のできごとで、そのためになんだかいつも現実離れしていた。
「こういうとき、年をとったなって思うの」
 グラスを揺すりながら、詩史は言った。
「え?」
 透には、脈絡がうまくのみこめなかった。
「こんなふうに予定が狂うことを、若いころにはもっとたのしめたような気がする」
 透はそれについて考えをめぐらす。若いころにはたのしめた、ということは、いまはたのしめない、ということだ。いまは歓迎できない、という――。
「アムラン、帰れたかしら」
 透はバーボンの氷に指で触れ、
「たぶん」
 と、こたえた。目の前のグラスやカウンターが、にわかに輪郭をはっきりさせたように思えた。現実を思い知らされたように。
「でも」
 変な接続詞かもしれない、と思いながら、透はおずおずと言った。
「でも、詩史さんには帰ってほしくない」
 もっと強い語尾を使えなかったことに、すこし腹が立った。
 膝に、詩史の手のひらが触れた。それはやさしく透の腿をすべり、ふいにひっこめられてしまう。
「あなたのそういうところ、大好きよ」
 透とまっすぐに目をあわせて言った。そして、両方から同時にそうした、と透にも確信できた自然さで、ゆっくりと唇が合わさった。丁寧に、大切そうに。
 放したくない、と自分が切実に望んでいるのとおなじだけ、詩史も望んでいるとわかった。この瞬間が永遠につづけばいい、と自分が念じているのとおなじだけ、詩史も念じているとわかった。そのようなキスだった。
「雪、まだ降っているかしら」
 ようやく唇を放すと、詩史は言った。そう望んでいるような言い方にきこえた。
「みてこようか?」
 スツールから降りた透の手の先に、詩史は指をからめた。
「待って。一緒にいくわ」
 大人についていきたがる子供のような素直さで、そう言った。財布から金をだしてカウンターに置く。携帯電話が鳴ったのは、そのときだった。
「はい」
 小さな声で、詩史は応じた。夫からだと、すぐにわかった。
「バーにいるから大丈夫」
 大丈夫、という言葉を、詩史は何度かくり返した。
「すばらしかったわ。やっぱり天才だと思う。アンコールでラフマニノフを弾いたの」
 ええ、そう、と、詩史は言った。
「透くんと一緒だから大丈夫」
 ややあって、詩史が、
「いいの?」
 と訊いたとき、透には、夫が迎えに来るのだとわかった。
「ここはほんとに大丈夫なのよ。じきに車もつかまるでしょうし」
 詩史は言ったが、透は、夫は迎えに来るに違いないと思った。詩史が遠慮をすればするほど迎えに来るに違いない、と。
「じゃあ待ってるわ。気をつけてね」
 電話を切った詩史の顔を、透はみたくなかった。

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