山野井の登山方法である、ヒマラヤにおけるアルパイン・スタイルは、登山の歴史の中から必然的に生まれ出てきたものだった。
 山に登る。それも登るために登る、というスポーツ登山が登場してきたのは、ここ二百年のことである。一七八六年、ヨーロッパ・アルプスの最高峰、四八○七メートルのモンブランが、ミシェル・パカールとジャック・バルマによって登頂されると、ヨーロッパに登山熱が広がり、それがアメリカやアジアにまで拡大していった。
 クライマーの目標は、まずヨーロッパ・アルプスの未登の頂に向かった。一八五八年にアイガー、さらに一八六五年にはグランドジョラスとマッターホルンといったアルプスの難峰が落ち、目標はヒマラヤの高峰に向けられるようになった。その象徴がエヴェレスト、現地のネパールでサガルマータ、チベットでチョモランマと呼ばれる山である。それが一九五三年のイギリス隊によって初登頂され、一九六四年に最後の八千メートル級の高峰として残っていたシシャパンマが中国隊によって登頂されると、世界の高峰に未登の頂は存在しなくなった。すると、クライマーの視線は「ルート」に向かうようになる。同じ頂を目指すのでも、比較的登りやすいノーマル・ルートからではなく、より難しいルート、いわゆるバリエーション・ルートから登ろうとするようになるのだ。
 その「より困難なルートを」という流れは、「壁」に対する強い関心を導くことになる。単に頂に到達するだけでなく、より困難な壁を攀じ登っていく。登るのは南壁からなのか、北壁からなのか。そのようにしてヒマラヤにおける壁の時代が始まる。そして、それは、いかに登るのかという新しい動きと連動することになる。
 ヒマラヤは、その初めから、大量の人員と物資を使っての大規模登山が主流だった。いわゆるポーラー・メソッド、あるいはシージ・タクティクスと呼ばれる登山スタイルである。日本ではポーラー・メソッドを極地法、シージ・タクティクスを包囲法と訳す。
 その極地法、包囲法では、まず大規模な登山隊が現地に乗り込み、大人数のポーターや動物を使ってベースキャンプまで大量の荷物を運ぶ。さらに、高所ポーターの助けを借りて、前進キャンプを設営しながら荷物を上げていく。その間、難しい箇所にロープを張るなどのルート工作をし、可能なかぎり頂上に近い地点に最終キャンプを設ける。そして、頂上へのアタッカーに選ばれた数人の隊員が最終キャンプまで上がっていき、登頂を目指す。
 こうした極地法、包囲法の登山では、問題はいかに効率的に前進キャンプを設営するかということと、誰をアタッカーに選ぶかということになっていく。隊員のすべてが頂上に立ちたいという気持を抱いていることに変わりはない。しかし、「隊の成功」という大義のもとに、最も強く、最も調子のいい者を、最もいい状態で最終キャンプまで押し上げ、頂上に登らせなければならない。そのためには、他の隊員は「捨て石」となることを受け入れなくてはならないのだ。しかし、誰がその強さと調子のよさを判断するのか。多くの場合は隊長ということになるが、隊員がその決定を認められないときはどうなるのか。
 その問題が鋭いかたちで現れたのが、たとえば一九七六年の日本のK2登山隊だった。第一次のアタッカーに選ばれなかった森田勝が、どうしても承服できないと、ひとりで山を下りてしまったのだ。
 極地法による大規模登山隊の遠征記録が、前進キャンプ設営の困難さと、アタッカー選出に至るまでの人間関係の描写に多くのページを割くのも、ある意味で無理なかったと言える。最大のドラマはそこに存在したからだ。
 しかし、一九七○年代の後半に至って、その登山法が劇的な転換を遂げる。
 すでにヨーロッパ・アルプスでは、小人数、または単独で、短期間のうちに頂上に登るという登山法が定着していた。このアルプスにおけるスタイル、つまりアルパイン・スタイルでヒマラヤを登ろうという人たちが現れたのだ。
 そうした試みは、以前にも散発的に存在したが、どれも不成功に終わっていた。ところが、一九七五年、イタリアのラインホルト・メスナーが、八○六八メートルのガッシャブルムI峰にペーター・ハーベラーと二人で登り、アルパイン・スタイルの無酸素登頂を初めて成功させる。さらにメスナーは、その三年後、今度は八一二五メートルのナンガ・パルバートにおいて、それを単独で行うことで究極のアルパイン・スタイルを提示したのだ。つまり、それがアルパイン・スタイルの「ソロ」である。
 以後、世界の先鋭的なクライマーは、アルパイン・スタイルで少数によるヒマラヤ登山を試みることになる。そして、さらにそれ以上に先鋭なクライマーは、アルパイン・スタイルのソロを目指すことになるのだ。
 こうした世界の登山界の流れにおいて、「八千メートル峰十四座完登」とか「七大陸最高峰登頂」とかいうものはあまり意味を持たなくなっている。それを誰が最初にやるかということにはゲームとしての面白さがあったろう。しかし、八千メートル峰十四座完登を一九八六年にメスナーが、七大陸最高峰の登頂を一九八五年にアメリカのディック・バスが成功させてからは、それらを目指すことは「ピーク・ハンティング」ですらなく、単なる「ピーク・コレクション」にすぎなくなっている。要するに、小学生が夏休みに熱中する鉄道駅のスタンプラリーほどの意味しか持たなくなっているのだ。
 たとえば最高峰のエヴェレストなど、いまでは「公募隊」と呼ばれる商業ベースの「登らせ屋によるツアー」が存在しており、金さえ払えば、シェルパに酸素ボンベを持ってもらい、山頂まで張りめぐらされた固定ロープをつたって登ることができるようになっている。
 このようにしてスタンプラリーのような「登頂印」をもらうことには、登山の歴史という観点からはほとんど意味がなくなっているのだ。

 それまで北極圏のバフィン島のトール西壁、南米パタゴニアの冬のフィッツロイと、極地の大岩壁をソロで登ってきた山野井が、ヒマラヤの高峰登山において世界的な登攀を成し遂げたのは、二十九歳のときだった。一九九四年、山野井はチョー・オユーの南西壁をたったひとりで登ることに挑戦したのだ。
 チョー・オユーは、八千メートル峰ながら、そのノーマル・ルートは比較的登りやすいとされていた。しかし、同時に、南西に極めて登りにくい壁を持っていた。そのチョー・オユーの南西壁は、かつてひとつのパーティーしか登ることを許していなかった。そのパーティーとは、スイス人のエアハルト・ロレタンとジャン・トロワイエにポーランド人のクルティカを加えた、いわゆる「最強のトリオ」である。
 山野井は、そのスイス=ポーランド・ルートを避け、壁の左手からまったく新しいルートで登ることにした。
 九月二十一日、夜の八時半に六千メートル地点の取り付きから登りはじめ、午前四時には七千メートルの核心部、最も困難なところに差しかかっていた。そこは、岩と雪とがミックスして現れる七十度ほどの急な壁だった。七十度とは、慣れない者の眼にはほとんど垂直に映る斜度である。ピッケルの先で雪の下を探り、岩のホールド、つまり手掛かりになる部分を掘り出す。そして、そのホールドを支えに、少しずつ登っていくのだ。足を滑らせれば千メートル下まで一気に落ちてしまう。
 午後三時、十六時間の連続行動の末に七千五百メートルまで登ることに成功する。そこで、次の日まで疲労を残さないようにとビバークした。
 一般にビバークとは、掘った雪洞や岩陰などで夜を過ごす露営を言うが、アルパイン・スタイルでの高所登山の場合、簡易テントによる幕営もビバークと呼ぶ。このときも山野井は一人用の小さなテントを使った。
 翌日は、午前六時から登攀を開始したが、柔らかい雪に阻まれてなかなか高度を稼げない。さらに、八千メートルに至って、七千メートルの核心部より、さらに困難な岩壁にぶつかった。さほど岩の質がもろくなかったことが幸いして、左手に握った鋭利なアイスバイルの先と、手袋を脱いだ素手の右手でなんとか乗り越えることに成功する。
 あとは空気の薄さとの戦いだけで、二十三日の午後四時には頂に立っていた。実に、取り付きから頂上まで四十三時間半という驚異的なスピードだった。
 その登頂は、「八千メートル峰を、バリエーション・ルートから、アルパイン・スタイルの、ソロで登る」ということに成功した、世界で四人目のクライマーになることを意味していた。
 すなわち、一人目は一九七八年にナンガ・パルバート西壁を登ったラインホルト・メスナーであり、二人目は一九九○年にローツェ南壁を落としたスロヴェニア人のトモ・チェセンであり、三人目は同じ一九九○年にダウラギリ東壁を登ったポーランド人のクシストフ・ヴィエリツキであり、山野井は、彼らに次ぐ四人目だったのだ。
 それは、もしクライミングをスポーツだとするなら、そのジャンルで最高のレベルに到達した稀有な日本人アスリートが現れたということを意味していた。ボクシングで言えば、フライ級ではなくヘビー級でタイトルマッチが戦えるボクサーということであり、陸上競技であればオリンピックの百メートルのファイナリストになれるスプリンターが現れたということである。
 しかし、日本において山野井は、一般的にほとんど無名と言ってよかった。山岳関係の雑誌に登山の記録を載せることはあっても、積極的にテレビや週刊誌に出ることはなかった。それは、山野井が本質的にあまり派手な振る舞いを好まなかったせいもあるが、登山の費用のすべてを自分で賄っているため、名前を売ってスポンサーを見つける必要がなかったからでもある。ただ、自分の好きな山を好きに登ることができさえすればよかったのだ。
 そうした山野井にとって、八千メートルという高さはヒマラヤ登山に必須のものではなかった。八千メートル以下でも、素晴らしい壁があり、そこに美しいラインを描いて登れるなら、その方がはるかにいいという思いがあった。
 山の壁を登るには、頂上まで直線的なルートで行くのが最も手っ取り早い。しかし、壁によっては直線的に登ることができないことがある。いや、ヒマラヤの高峰の場合、ほとんど不可能と言ってよい。そこで、壁の形状や性質から判断して、最も危険が少なく、最も素早く登れるルートを探す必要が出てくる。それがルート・ファインディングである。美しいラインとは、すぐれたルート・ファインディングによって見出された、最も合理的なルートでもある。
 自分が登ることで壁に一本のラインが引かれる。山野井にとっては、そのラインの美しさが何より大事なことであり、ギャチュンカンはまさにそうしたラインを引ける山のようだった。