ゴールデンスランバー




  第一部 事件のはじまり


   樋口晴子

 樋口晴子は、平野晶と蕎麦屋にいた。「四年ぶり」と、遅れてきた平野晶は遅刻を詫びることもなく言い、「変わらないねえ」と椅子に座った。「日替わりランチを二人とも」白い上っぱりを着た店員に即座に注文する。
 仙台駅近くの生命保険会社のビル、その地下にある飲食店の並び、突き当たりに位置した店だった。平野晶が勤めている家電メーカーの事務所に近く、樋口晴子が同じ会社に勤めていた時には二人でよく、そこの蕎麦屋を訪れた。四年ぶりに再会する待ち合わせ場所としては相応しく思えた。
「変わらないねえ」平野晶がもう一度言う。
「ほんと。メニュー同じだよね。でもさ、ざる蕎麦についてくるわさびが、自分で擂るやつじゃなくて、練りわさびになったよね」
「じゃなくてさー、晴子ちゃんがだよ。本当に子持ちなわけ」
「四歳と九ヶ月」
「わたしは、三歳と三三九ヶ月」平野晶は真面目な顔で言う。
「暗算?」
「合コンでよく使うからね、これ」
 合コンいいなあ、と樋口晴子は目を細め、四年ぶりの平野晶をしみじみと眺める。小柄で細身の体型、茶色にした髪にパーマをかけている。くっきりとした二重瞼、唇は少し厚みがある。化粧は薄い。十一月下旬の仙台はすでに肌寒く、街を行く人々の多くもコートを羽織りはじめていたが、平野晶は黒い長袖のニットを重ねているだけだった。
「あのさ、前から聞きたかったんだけど、晴子ちゃんて、わたしのこと職場でどう思ってた? いっつも隣の席で、男の話題ばっかりだし、馬鹿にしてた? 見下してた? なんかわたしのこと、『晶さん』って、さん付けだったし、距離を置いてた?」
「見上げてた」
「何それ」
 自分と同い年ではあったが、どこそこの得意先の男が恰好いいだとか、今付き合っている男の性癖はこうだとか、女の自分が見てもエロい下着を見つけただとか、そういった話題を溌剌と口にする彼女が、樋口晴子には羨ましかった。「生命力に溢れてたし」
「溢れる生命力って、ゴキブリに使う表現だよね」平野晶が片眉を下げ、苦々しそうにした。
「でも、仕事中でも、彼氏から電話がかかってくると、『課長! 有給休暇これから取っていいですかー』って大声で言って、それでも社内で嫌がられないのって、凄いと思う」
「そんなにしょっちゅうじゃなかったでしょうに」
「結構、あったよ」樋口晴子は笑う。
「それはね、一応、状況も見てはいるんだよ。今日は早退しても平気だろうな、とかさ」
「ちゃんとバランスを」
「まあ、仕事どころじゃない興味深い話とか持ちかけられたら、どんな時だろうと早退するけど」
「じゃあ、今度わたしが電話して、『離婚する』って言ったら」
「即座に、『課長! 有給休暇取っていいですか』って叫ぶね」
 本当にそうしそうだな、と樋口晴子は頬を緩めた。
 店内はそれなりに賑わっていたものの、平日の十二時台にこの程度の混雑では、経営が厳しいのではないか、と心配にもなるが、西側の壁の、高い位置に取り付けられたテレビが薄型の新しいものであったから、あれを買う程度には経営も順調なのかもしれないな、と安心する。テレビからは、昼のニュースが流れている。全国放送の民放番組で、見知った仙台駅前の光景が映っていた。地元の映像には、奇妙な新鮮さと気恥ずかしさがあった。垢抜けない自宅が、テレビで披露される恥ずかしさだ。「金田首相パレードまであとわずか」とテロップが流れる。
「今日の仙台は、金田フィーバーだねえ」片肘をついた平野晶が歌うように言った。「うちの会社の人もさ、昼休みになったら観に行ってたよ、パレード」
「厳戒態勢だよね。あちこち通行止めだし」樋口晴子は街に出てくる最中に見かけた、警備の様子を思い出した。野球の捕手がつけるような、プロテクターを身体につけた警察官たちの胸には、「宮城県警」の文字があった。
「今話題の新首相がやってきて、何かトラブルでもあったら、警察の偉い人たちは相当やばいだろうからね。必死だよ必死」平野晶は首を傾け、テレビを見やった後で、ちょうど運ばれてきた日替わりランチの盆を受け取った。
 蕎麦を食べながら、平野晶の恋人の話になった。合コンで知り合ったという三歳年下の彼は、勤勉な会社員で童顔の男、平野晶の願いであればどんなことでも叶えようと一生懸命になる、という。
「あれはね、きっとランプの中にいたね、昔は。ランプこすられると出てきて、言いなりになる癖がついちゃってるんだよ」
「ランプの精かあ」
「で、名前がさ、将門なんだよね。偉そうでしょ。わたしが平野だから、くっつければ、たいらのまさかど、と読めなくもない」
「会社員って何の会社なの」
「それが面白いんだけど」平野晶が声を少し高くした。自分のボーイフレンドに、ようやく言及する価値を見出した、と言わんばかりだった。「セキュリティポッドって知ってる?」
「街中に置かれてる、あれ?」
「あちこちにあるよね。『スター・ウォーズ』のR2-D2みたいなやつ」
「あれって、本当に情報取れてるのかなあ」樋口晴子は首を捻る。住民の安全を守るために、と導入されたものの、その機械がどれほどの情報を得て、警戒に役立っているのか、ぴんと来なかった。
「将門君が言うには、そんなに凄くないらしいけど」
 どうせならば、しっかりとした衛星を飛ばして、上空から監視したほうがよほど正確で効率が良い、ということのようだった。
「ただまあ、ポッドの周辺写真は撮れるみたいだし、携帯電話の通話情報をあそこでキャッチしてるらしいからね。監視社会だよ、ザッツ、監視社会」
「将門君の仕事は、その、ザッツ監視社会?」
「の掃除」
「監視社会の掃除?」
「セキュリティポッドのカメラのレンズとか、そういうのを拭いて、掃除するんだって。定期的に、ワゴンで回って。壊れてないか、チェックして。興味深いでしょ」
「その将門君とは結婚しないわけ」
「結婚ってどう?」
「どうと言われても」
「子供って可愛い? 男だっけ、女だっけ」
「娘。可愛い」樋口晴子は顔を強張らせ、端的に答えた。気を緩めると、頬が垂れ、ずるずると我が子の可愛らしさについて喋り出してしまいそうな気がした。「で、将門君とは結婚しないわけ?」と質問を繰り返す。
 平野晶は二重瞼をぱっちりと開け、口に啜りかけの蕎麦を箸で支えながら、動きを止めた。じっと樋口晴子を見詰める。ほどなく、口だけを動かし、蕎麦を飲み込む。「トランプを一枚ずつ配られるとするでしょ」
「何の話?」
「たとえば。たとえばスペードの10とかを手にした時にさ、このままストップするか、さらに交換すべきか、悩むよね。10って微妙じゃない。もっといいカード来るかもしれないし。これがエースとか、4とかだったら、分かりやすいけど」
「将門君は、スペードの10かあ」樋口晴子は、不在の将門青年の無念を想像する。「実は、絵札かもよ」
「ないない」と平野晶は強く否定した。「まあ、11みたいな顔してるけどね。Jのあの絵の男みたいな」と微笑む。その笑みには、将門青年への慈しみが含まれているようでもあった。「その点、晴子ちゃんはさ、最初に絵札を引いちゃったわけだ。で、交換不要で、はい、勝負」
「最初のカードってわけじゃないけど」と樋口晴子は苦笑する。「まあ、早めには来たね」
 晴子ちゃんののろけで蕎麦が美味くなった、と平野晶は音を立てて、そばを啜る。飲み込んだ後で、「あ、そういえば」と指を鳴らした。「そういえば、一緒に働いてた頃、話してたよね。大学時代の彼氏の話。二枚目なんだけど、頼りない」
 樋口晴子は、「そうそう」と顎を引き、青柳雅春の顔を思い出す。そして、樽が頭に浮かんだ。
 横倒しになり、壁一面に積まれた樽だ。その樽には、小さな栓があり、突起状のそれを引き抜くと、中からワインが流れ出る。まさにその時の樋口晴子も、平野晶の言葉をきっかけに、頭の中の樽の栓が抜かれ、そこから、青柳雅春と過ごした時間の記憶がどっと溢れ出るような感覚に襲われた。樋口晴子は、慌てて栓を探し、ワイン塗れならぬ思い出塗れとなった手で、樽に挿し込む。ぴたりと記憶が止まるが、すでに零れ出していた記憶の断片は、いくつかの切り取られた場面として、ひらひらと頭の中を舞っている。現像された写真のようだ。揺れ、落ち、時折、翻る。大学入学時、はじめて会った時の幼さが残る青柳雅春がそこには映り、また、別れ話を切り出した際のきょとんとした青柳雅春がいた。
「あのさ、二年くらい前に、地元の宅配便のドライバーが話題になったこと、覚えてる?」樋口晴子は言った。
 蕎麦を啜っていた平野晶は眉根を寄せ、目をきょろきょろとさせた後で、また指を鳴らした。「覚えてる。というか、今、思い出した。配達中に、泥棒捕まえて、有名になった奴だよね。男前だったから、覚えてる。あれもフィーバーだったね。わたしも惚れちゃったし」と平野晶が言う。「恰好いいのにどこか朴訥としてて。でもさ、あれ、何であんなに大騒ぎだったんだろ」
「助けた相手が、アイドルだったからね」
「あのアイドルの名前、何だったっけ?」
「忘れた」
「だよね」平野晶は口を動かしつつ、蕎麦湯をつゆに注いでいく。
「何でも消えていくよね、ほんと」樋口晴子は強く、首を振った。「アイドルも、宅配便の運転手も、元の彼氏も」
「消えたと言っても、どこかにはいるだろうけどねえ。あ、今日、可愛い娘は?」
「幼稚園」
 すると平野晶はじっと、樋口晴子を見つめ、「ほんとお母さんなんだなあ」と言った。
 視線がテレビへと向いた。見知った建物が見える。仙台市街地、南を走る国道から、県庁や市役所の通りへと続く大通りだ。バスの停留所の密集した場所だった。十一月の寒い沿道に人がぎっしりと並んでいる。いったい仙台のどこにそんなに大勢が隠れていたのか、と思う一方で、これだけの人数が見物にかまけていても、世の中は通常通りに動くんだな、とも感じた。働き蟻の三十パーセントは働いていない、という有名な話を思い出し、今パレードに駆けつけているのはその三十パーセントなのではないか、とぼんやり考える。
「そんなに首相が観たいかねえ、みんな?」
「宮城出身だから、仲間意識があるのかな」
「最初、首相の予備選に出た時はほとんど関心なかったくせにねえ。身勝手だよ。県知事なんてさ、金田が最初、挨拶に来た時なんて、『まあ、若いから、チャンスはこれからもありますよ』とか笑っていたらしいよ。それが首相になった途端、手のひら返しだよ。地元でぜひ、パレードをしてください、なんてお願いして」
「オリンピック選手じゃないんだからね」
「でも、首相になってから半年も地元に来なかったのは、金田の意地じゃない?」と平野晶は穿った見方をしてみせた。「最初は応援してくれなかったくせに、っていうさ」

購入