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さよなら渓谷
吉田修一

きっかけは隣家で起こった幼児殺人事件だった。その偶然が、どこにでもいそうな若夫婦が抱えるとてつもない秘密を暴き出す。取材に訪れた記者が探り当てた、15年前の“ある事件”。長い歳月を経て、“被害者”と“加害者”を結びつけた残酷すぎる真実とは――。『悪人』を超える純度で、人の心に潜む「業」に迫った長編小説。

ISBN:978-4-10-462804-9 発売日:2008/06/20

立ち読み 書評 雑誌から生まれた本

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さよなら渓谷


 目を閉じると、真夏の森を歩いているようだった。蝉の声は間近で、風もなく、葉を揺らすこともない樹々は、静止画のように動かない。
 俊介は目を閉じたまま、足の指で扇風機のスイッチを入れた。室内にこもっていた空気が動き、自分がどれほど汗をかいていたのかが分かる。決して涼しくない扇風機の風でも、肌に当たればひんやりとする。
 俊介は寝返りを打ち、肩の汗をシーツにこすりつけた。シーツにできた無数の小さな毛玉が、ざらざらとして気持ちいい。
 目の前にかなこの白い背中があった。まだ荒い息をついている。背中を汗が一筋流れ、止まり、またゆっくりと流れ出す。鼻がつくほど顔を近づけると、あるかなきかの産毛が背骨に沿うように生えているのが見えた。
 日当りの悪い室内でも、真昼の烈日が感じられた。近所の家でつけられているテレビの音が微かに聞こえる。俊介は舌を伸ばしてかなこの背中を舐めた。面倒臭そうに動いたかなこの腕が、俊介の顔に落ちてくる。互いの汗がペチャと嫌な音を立てる。
 俊介は布団にあぐらをかき、だらりとした性器にタオルケットをかけた。引っ張ったタオルケットの先にかなこの白い尻が現れ、すぐにタオルケットが引き戻される。隠した俊介の性器が、また露になる。
 さっき何度も腰をぶつけたテーブルでコップが倒れ、氷がこぼれている。半分ほど溶けた氷が、水たまりに浮いている。
 テーブルには昨夜かなこが履歴書を書くときに出した文房具入れの小箱もある。俊介はその中から何気なくセロテープを取り出し、しばらく穴に指を入れて回したり、カッターを指の腹で撫でたりした。
 退屈しのぎに、長くテープを引っ張り出して、かなこの肩から背中へかけて貼りつけた。枕から頭を起こしたかなこが、やはり面倒臭そうにセロテープの貼られた背中を掻く。
 俊介は一気にテープを剥がした。もっと音が立つかと思ったが、汗に濡れたテープは音もなく剥がれて、縒れた。
 かなこは剥がされたあとをまた掻いた。肌に薄らと赤くテープのあとが残る。
 縒れたテープを窓のほうへかざすと、かなこの皮脂の模様がはっきりと浮き出ている。こちら向きに寝返りを打ったかなこがそれを奪い取り、目を細めて、自分の皮脂の模様を見つめる。
 放り出された乳房が垂れ、あぐらをかいた俊介の膝に、その乳首が触れた。
「明日、『せせらぎの郷』の面接行くから」
 かなこがテープをくしゃくしゃに握り潰しながら言う。
「面接?」
「昨日電話したら、やっぱり募集してるって」
「働くの?」
「駄目?」
「いや、もちろん駄目じゃないけど……」
「何?」
「いや、別に……」
「何よ?」
「だって、あそこ、男湯の掃除とかさせられるんだろ?」
 しばらく返事を待ったが、かなこは何も答えなかった。代わりに、自分で引っ張り出したテープで、俊介の指を縛ろうとする。
 されるままに俊介は両手を差し出した。揃えた両方の親指を、かなこがテープで固定する。
 一旦、固定されると、取ろうとしても指は離れず、圧迫された指先の色が微かに変わってくる。
 その様子をかなこが面白そうに眺めている。興が乗ったのか、今度はあぐらをかいた俊介の毛深い脚を伸ばさせ、両足の親指もセロテープできつく縛った。
「動けないでしょ?」
 かなこが挑戦的に笑うので、俊介は、「動けるよ」と答えて、立ち上がろうとした。が、バランスを崩して前につんのめり、尻を突き出すような無様な格好になった。突き出された尻を、かなこがパチンと叩いて笑う。
 笑うとかなこの乳房が揺れた。さっき甘噛みしたあとが残っている。俊介はもう一度体を起こして、立ち上がった。バランスをうまく取れば、なんということはない。
「歩ける?」
 かなこが笑うので、俊介は布団の上で何度かジャンプしてみせた。その度に性器が腹に当たって音を立て、かなこが枕を投げつける。
「中学のころ、似たようなことしてクラスの子をいじめたことあるよ」
 突っ立った俊介を見上げて、かなこが呟く。
 踏みつけたシーツが濡れている。二人の体液が混じり合った場所で、俊介はもう一度ジャンプしてみせた。両足の親指の根元に食い込んだテープのせいで、千切れるような痛みが走る。
「小学校のころは一番仲が良くて、ふざけてキスの練習とかしてた子だったけど」
「子供のころ、いじめっ子だったんだ?……珍しいな、昔の話なんかするの」
「そう?」
 かなこは表情を変えず、自分の脇腹についていた糸屑を取った。
 塀の向こうを近づいてくる数人の足音が聞こえたのはそのときだった。子供なのか、歩調は小刻みで、速い。
「小学校のころ、同じクラスの女の子にいじめられたことあるな」
 身体を捩ってパンツを穿くかなこに、俊介はそう言った。
「その子、あんたのこと、好きだったのよ」
「みんなそう言うけど、あのいじめ方は本気だったぞ。縄跳びの縄で俺のこと縛るんだよ。まぁ、俺も掃除サボったりしてたんだけど、そんで廊下を歩かされるわけ」
「黙って歩いたの?」
 ブラジャーもつけずにTシャツを着ようとしたかなこが、一瞬、動きを止めて、俊介を見上げる。
「歩いてやれば、それで向こうの気も済むみたいだったしな」
 塀の向こうで足音が止まった。同時に、「ここだよ。絶対、ここ」「ほんとにあの女ん家の隣なんだ」という子供たちの声が聞こえる。次の瞬間、「コーチ! 尾崎コーチ、いますか!」と呼ばれた。野球チームの子供たちらしかった。
「ほら、そのままの格好で出なさいよ」
 かなこが面白がって、俊介の臑毛を毟る。避けようとした瞬間、足の親指の根元にテープが食い込む。
「何だ? どうした?」
 俊介は痛みを堪えて声を返した。返さなければいつまでも呼び続けられそうだった。
「あ、いた!」
「ほら、やっぱりここだろ」
 ホッとしたような子供たちの声がする。
「あの、お母さんたちに頼まれて、ビール持ってきたんですけど」
「ビールじゃないって。お中元って言えって言われたろ!」
 小突き合っているのか、塀の向こうで砂利を踏む音が乱れる。
「結構、ママさんたちにも慕われてるんじゃない。お中元、持たせるなんて」
 かなこが小馬鹿にしたように呟く。
「分かった! すぐ出るから、ちょっとそこで待ってろ」
 俊介は声を返すと、さっさと部屋を出て行こうとするかなこの腕を掴み、「切ってくれよ」と、すっかり変色した両手の親指を突き出した。一瞬面白がって拒んでみせようとしたが、面倒になったのか、かなこは文房具箱から鋏を取り出した。
 両足の親指の間に、ゆっくりと鋏が差し込まれる。俊介は黙って、かなこの手元を見下ろした。鋏の刃はぞっとするほど冷たかった。

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