I 満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。ひそかに娼家を営んでいるローサ・カバルカスのことを思い出したが、以前、彼女は新しい女の子が見つかると、いつも上客にだけ伝えていた。何度か声をかけられたが、私は一度もみだらな誘惑に負けなかった。だからと言って、彼女が私を潔癖な人間だと思っていたわけではない。意地の悪い笑みを浮かべながら、いずれ思い当たるときがくると思うけど、モラルもやはり時間の問題なのよね、と言ったものだった。彼女は私よりも少し年下だったし、長年音信が途絶えたままになっていたので、生きているかどうかも分からなかった。しかし、電話をかけると、すぐに電話口の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきたので、前置きをせずにこう切り出した。 「今日は大丈夫だ」 彼女はほっとため息をつくと、かわいそうな物知り博士さん、二十年前にふっつり姿を見せなくなったと思ったら、突然電話をかけてきて、無理な注文をつけるんだものね、と言った。そしてすぐに、その道のプロらしく、心そそる女の子を六人ばかり紹介してくれたが、むろんどの女も処女ではなかった。私は、そういう子じゃダメなんだ、乙女でないといけないし、それも今夜必要なんだと言った。彼女はびっくりして、いったい何をしようっていうの、と尋ねてきた。私は一番痛いところを突かれて、何もしないと答えたが、今の自分に何ができて、何ができないかはよく分かっている。彼女は平静な口調で、物知り博士と言われる人は何でも知っているけど、本当は何でも、というわけではないのよね、この世界で生き残れる乙女座の人って、八月生まれの人だけだものね、だけど、どうしてもっと早く言ってくれなかったの? いや、今まで考えつかなかったんだ、と答えた。すると彼女は、インスピレーションというのはどんな人間よりも訳知りだから、きっと待つことを知っているはずよと言い、そのあと、あちこち当たってみるから、あと二日もらえないかしらと言った。私は厳しい口調で、自分くらいの年齢になると、こういった場合、普通の人の一日が一年に当たるんだと答えた。すると彼女はためらうことなく、だったら無理ね、でも、いいわ、面白そうだからやってみる、一時間待ってくれる? と言った。 こういうことは言うべきではないのだろうが、私は遠くから見てもそれと分かるほどの醜男で、内気な上に時代遅れのところがある。だから、人からそういう人間だと思われたくないばかりに、これまで無理をして逆の人間を装ってきた。はじめて私は、良心の呵責をやわらげるためではあるが、自分の自由意志で、ありのままの自分をさらけ出すことにした。そこでローサ・カバルカスに電話をかけたのだが、今にして思えば、それを機に、普通の人がほとんどあの世へ旅立っているこの年になって、新しい人生が始まることになった。 私はサン・ニコラス公園の日当たりのいい歩道のそばにあるコロニアル風の家に住み、両親が死ぬまで暮らしていたこの家で、妻も財産もなくずっと生活してきた。自分が生まれたベッドで、遠いいつの日か苦しむことなく一人で死んでいこうと決めている。父は十九世紀の後半に公開の競売でこの家を買い取ると、高級品の店を開きたいというイタリア人の組合に一階を貸し、組合員の一人の娘と幸せな生活を送るために二階で暮らすことにした。フロリーナ・デ・ディオス・カルガマントスという名の娘はモーツァルトの演奏家として知られ、数カ国語に通じていて、ガリバルディの信奉者でもあった。いまだかつてこの町で見かけなかったほどの美貌と才能に恵まれたその女性が、私の母である。 家の中は広々として明るく、天井にスタッコのアーチがあり、床はフローレンス風の市松模様の寄せ木細工になっている。長いバルコニーに向かって四枚のガラスの扉がついているが、三月の夜になると母はそこに腰を下ろし、イタリア人の従姉妹たちと一緒にアリアを歌ったものだった。そこから大聖堂とクリストバル・コロンの像があるサン・ニコラス公園を一望できるし、その向こうには、川船用の桟橋のそばに建っている倉庫と、河口から二十レグアスはなれた大河マグダレーナ川の茫洋とした水平線が望める。この家で唯一の悩みは、陽射しが一日中いくつもある窓から射し込むせいで、すべての窓を閉めて、むせ返るように暑い薄暗がりの中で昼寝をしなければならないことだ。私は三十二歳のときにこの世に一人取り残されたが、以来、両親が使っていた寝室で寝起きするようになった。書斎に通じるドアを開いて、生活していくために不要なものすべてを競売にかけた。そのせいで、本とロール式の自動ピアノを除いて、ほとんど何もなくなってしまった。 四十年にわたって私は《ラ・パス日報》の外電屋をしてきた。外電屋というのは、短波、あるいはモールス信号の形で空気中を飛び交っている世界中のニュースを捕まえて、それを新大陸の言語で再構成し、足りないところを補う仕事をする。私は現在、姿を消したあの仕事から入る年金で何とかやりくりしている。それ以外にスペイン語とラテン語の文法を教えているが、そこから入る収入は微々たるものだし、半世紀以上休まずに書き続けている日曜日の記事はほとんど実入りがない。わが国には著名な演奏家がよく来訪するが、そのときに書いている音楽と演劇関係のコラムにいたっては一文にもならない。私はものを書くことに関わる仕事以外したことがないが、物語作家としての資質と才能には恵まれていない。作品をドラマティックなものにするための法則をまったく知らないのだ。回想録を書いてみようと思い立ったのは、これまでいろいろな本を読んできたので、何とかなるだろうと思ったからだが、正直なところ能力も才知のきらめきもない私は、こういうものを書くのに向いていない。これから自分の大いなる恋の回想録を書きつづり、その中で精一杯これまでに起こった事件について語るつもりだが、それが後世に残すことのできる唯一の遺産になるだろう。 いつものことだが、朝の五時になって、明日の金曜日が九十歳の誕生日だということを思い出した。《ラ・パス日報》の日曜版に載せる記事を書くだけで、他に仕事はなかった。明け方からその日がつらい一日になりそうだという予兆があった。夜明け頃から身体の節々が痛み、お尻が燃えるように熱くなり、三カ月続いた乾季が終わり、嵐の到来を告げる雷が鳴りはじめた。コーヒーができるまでの間にシャワーを浴び、蜂蜜を入れて甘くしたコーヒーをマグカップで飲み、タピオカのパイを二つ食べ、家にいるときに着る布地のつなぎに着換えた。 記事のテーマは、言うまでもなく九十歳の自分のことである。屋根に落ちる雨だれの音を聞きながら、自分の命はあとわずかしかないと考える人がいるが、私は年齢をそんな風にとらえたことはない。人が死ぬと、髪の毛に棲みついているシラミがぞろぞろ枕の上に這い出してきて、家族のものが恥をかくという話をごく幼い頃に聞かされたことがある。 |