木に学ぶ


 1 檜あるいは木曾檜について

 見分けがつかない
 仕事柄、木の名前は知っている。板になった姿ならまず判別はつく。しかし、笑われるかもしれないが、立ち木はなかなか見分けがつかない。人に教わって、あの木はこんな姿だったのかと改めて見入るのである。
 馴染みのない木ならそれでもかまわない。ただ、檜と椹となると、同じヒノキ科ヒノキ属ではあっても、そんなことは言っていられない。車で二〇分ほどの国有林に行けば二抱えもある檜や椹などの木々に出会える山村に住んでおり、しかもそれらの木を加工する仕事をしてきた者として、見分けがつかなければ恥ずかしい。
 二〇年前、いやもっと前だろうか、国有林内で出会った営林署の人に「見分け方を教えてほしい」と頼んだことがあった。
「見ればわかる」
 その通りではあろうが、見分ける手立てが知りたいのである。
 彼は双方の葉を取り、掌に載せて、こう説明してくれた。
「檜の葉先はやや円い。椹は少しとがっていて、裏が白っぽい」
 しかし、いくらじっと見ても違いがよくわからない。
「同じように見えるのだが……」
「たしかに」彼は葉に目をやりながら苦笑した。「こうして見ると、似ているな」
 それでは困る。
「樹皮の違いから見分けはできないだろうか」
「そうだな、檜の肌は赤味がかっていて、男っぽい。それに比べると、椹は少し色が薄く、女っぽく見えないか」
 教わりながら周辺の木をよく見てみると、たしかに檜の肌はやや荒々しい。これをヒントに、「あれが檜」「これが椹」と指差すと、ほどほどに当てることができた。
「板になっていれば、見るだけですぐにわかるのだが」
 そう伝えると、強面であれこれと教えてくれた彼が溜息をもらした。
「皮の付いていない板になると、檜か椹か、オレにはさっぱりわからん」
 今も立ち木を見分けることはむずかしい。山に詳しい人と山を歩く時には、私は常にその人の言葉に耳を傾け、わからぬところは必ず訊ねるようにしている。

 台湾と北米にも
 ヒノキ科ヒノキ属には何種かある。まず、国内には檜と椹の二種。台湾には、業界で台檜
と呼ぶ台湾檜、そして紅檜と呼ぶ台湾椹の二種がある。
 紅檜は台檜の別称と書かれた本を読んで、ずっとそう思ってきた。ところが、ある研究者から、紅檜は椹だと教えてもらった。台湾檜を台檜と呼ぶなら「台椹」とでも呼べばよさそうなものである。おそらく、椹とわかってはいても、日本での売買を前提としているので、高級材である「檜」の字を残しているのではないだろうか。
 残りは北米にある。日本では、国産の檜とは趣が違うが、北米から輸入されるある種のファー(樅)やパイン(松)が「米檜」として市場に出回っている。ただ、私は台湾産も北米産も使ったことがない。仕事の縁がなかったのである。
 ちなみに、檜と椹は中国および朝鮮半島では自生しない。

 広葉樹の文化が残っていた
 高度三〇〇〇メートルの上空から、わが付知の町を撮影した写真がある。山に囲まれた付知川沿いに、痩せたサツマイモの形のような平地が南北に延びている。一五キロほどしか流れていない川にしては、川原の幅が広い。
 海抜四六五メートルの町からは、高い山といっても、三界山(一六〇〇m)くらいしか見えない。しかし、町を北に向かって撮影したこの航空写真には、付知の奥山のすぐ先に御嶽山(三〇六七m)が裾野を広げて大きく写っている。町からこの山まで直線にすれば二五キロほどしかないが、周囲の山がさえぎって見えないのである。
 御嶽山からやや離れて、乗鞍や穂高の連山が見える。霞んだ彼方の山々は白山、白馬、妙高であろう。楽しいパノラマ画を描いた吉田初三郎の流儀でいけば、その先は日本海、さらに彼方はロシアの沿海州となる。
 もしカメラを一八〇度回せば、隣の福岡町・中津川市・恵那市の背後にある恵那山(二一九一m)が御嶽山と同じ距離にある。これまたパノラマ画風に記すと、その先は愛知県猿投の山々、豊田市、岡崎市、さらには渥美半島と渥美湾、そして太平洋。私がもし吉田初三郎なら、方角は無視して、はるか彼方に小さくハワイを描くだろう。
 写真に戻ろう。付知の町を囲む山も御嶽山の周辺も、白茶けた崩壊地が緑に穴を開け、意外に多い林道が緑を切断している。ただ、町から直接見える山々はずっと緑が濃い。これは主として檜の植林による結果である。
 一九三八(昭和一三)年、私は父母の郷里であるこの町で生まれた。三歳から八歳までは台湾で育ったが、日本の敗戦に伴い、一九四六年春に戻ってきている。その年は特に遅い春で、亜熱帯の台湾育ちの子供には寒さが身にしみた。
 記憶はほとんど残っていなかったので、見るもの聞くものどれもが珍しい。炭を焼く煙が雪の残った山裾の林間のあちこちから立ち昇っていたことなど、よく覚えている。
 当時も檜の林はあったが、案外に山の緑はまだらであった。暮らしの中に広葉樹の文化が残っていた時代だからである。
 桃太郎のお爺さんは山へ柴刈りに行く。折り焚く柴の木は広葉樹であろう。囲炉裏の脇に置かれた粗朶を手で折るとしたら、広葉樹が折りやすいし、火力もある。薪は針葉樹でもいい。ただ、農業における土地造りには堆肥が必要で、山野の草とともに、広葉樹の葉が不可欠となる。また農業だけではなく、山の土そのものにとっても、木が生きていくためには、広葉樹の落ち葉が必要なのである。
 堆肥はとうに姿を消している。金で買う合成肥料に代わってしまった。私が帰郷したころには、炭焼きがいた。風呂は薪で焚いていた。田圃には堆肥が積んであった。生活のために、お爺さんも子供も柴を背負いだす山が大事だったのである。
 炭用材の山を「カナギ山」と言った。カナギ(あるいはカナキ)は「鉗」と書く。硬い木という意味で、広葉樹である。カナギの太さは少々不揃いでもかまわない。太過ぎれば、斧で割って窯に入れればいいだけである。
 皆伐せず、若い木は残しておいた。すると、一〇年ほどで炭用材となる。若いカナギの葉は土を肥やし、保水を助け、根は杭のように沈み込んで土壌を保全してくれる。
 しかし、いつしか燃料も肥料も金で買うようになってしまった。不要になった広葉樹に代わって、山には檜が植えられていった。町から直接見える今の山の緑はその結果なのである。

 樹齢三〇〇年を越える大径材
 この町から産出される檜には「木曾檜(尾州檜)」と「東濃檜」(「東濃」は「東美濃」の意)がある。木曾檜は樹齢三〇〇年を越える大径材を言い、檜の銘柄として知られている。一方、東濃檜は、天然更新のものもなくはないが、主として植林の檜であり、木曾檜より若い。
 木曾檜の林は奥山の国有林にあって、町からは見えない。私がはじめて入ったのは林道が開通した四〇年ほど前で、当時は付知の奥山でも盛んに大径材が伐採されていたが、今では隣接する加子母村の奥山から伐採されている。
 今日、もし大径の木曾檜の立ち木を見ようとするなら、加子母村の出ノ小路に入らなければならない。ちなみに、一八九九(明治三二)年、ここは伊勢神宮の備林に指定されている。すでにしてその当時、資源枯渇の兆しがあり、式年遷宮に備えてこの山が囲い込まれたのである。
 付知町も加子母村も岐阜県恵那郡にあるが、ここで産出される樹齢三〇〇年以上の大径材を特別に「木曾檜」と呼んで、なぜ他とは区別するのか。それには次のような理由があった。
 一六一五(元和元)年、大坂夏の陣に勝利した徳川家康は、尾張藩主に据えた九男義直の結婚にあたって、木曾山、美濃の東端にあって木曾山に隣接する加子母・川上・付知の三ヶ村、美濃の木曾川沿岸の六三ヶ村を与えた。建築でも土木工事でも木が主材であった時代であるから、いわば木曾山という資材蔵を与え、かつ木曾山と尾張を結ぶ運送道路を確保したことになる。
 加子母・川上・付知の三ヶ村は、広大な木曾の山々の裏側にあるので、裏木曾三ヶ村と呼ばれた。木曾やこの裏木曾で産出される檜は「木曾檜」、あるいは尾張藩の檜ということから「尾州檜」と称されるようになったのである。
 近代に入って、藩有林は一八七一(明治四)年に官林、一八八五年に宮内省御料局林、一九四七(昭和二二)年に国有林と名を変えたが、ここから産出される大径材は一貫して木曾檜あるいは尾州檜と呼ばれてきた。
「檜はそれだけで家が建つ。建具にも家具にも水回りにも使える唯一の木だ」
 さる先達がそう話してくれたことがあった。もちろん、木曾檜でも同じである。その素晴らしさを書こうとして、実は困っている。
 一応は次のように言うことができるだろう。木曾檜は太くて長い。年輪が細かい。他の木に比べ、材として均一である。そこには長い時間が濃く詰まっていて、人間に何かを語りかけてくれる。……これで説明になっているかどうか。もう少し違う角度から書いてみよう。

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