まえがき 「余の顔を見忘れたか」 単身乗り込んだ悪人の屋敷で、松平健演じる将軍徳川吉宗が投げかける決めゼリフである。悪人が、吉宗の顔を思い出して恐れ入るという時代劇「暴れん坊将軍」のハイライトシーンだ。「水戸黄門」で言えば、「この紋所が目に入らぬか!」と、葵の紋所の印籠を振りかざす場面である。時代劇の世界では、将軍は割合身近な存在だろう。 しかし、この時代徳川将軍家とは、現在では想像も付かないほど、はるか遠い存在であった(山本博文『遊びをする将軍踊る大名』教育出版、二〇〇二年)。そもそも将軍の顔を見知っている者など、ほとんどいなかった。当時の日本の総人口は約三千万人だが、千人ぐらいしかいなかっただろう。 将軍の身の回りの世話をする側近、将軍の生活と一体化していた大奥以外、将軍と直接話をするチャンスさえなかった。実のところ、大奥でさえも、将軍の顔を見られる女性はごく一部に過ぎなかった。江戸城には葵のカーテンが引かれ、あたかも神様であるかのように、その存在は深く隠されていたのである。 武士は将軍に拝謁(御目見得)できるか否かで、ランク付けされたが、御目見得以上の武士、つまり大名や旗本でも、江戸城に登城して将軍に拝謁できるのは、一年に数えるほどだった。いざ拝謁する段になると、「しー」という声が一斉に発せられ、城内は異様な空間に一変する。荘厳な雰囲気のもと、拝謁者に神々しさを感じさせる演出だ。 江戸城内の作法が大変厳しかったのも、演出の一つだ。畳の縁を踏んだだけで、大名といえども、江戸城内に留め置かれた。異常な緊張感が求められる空間だった。「面を上げよ」と言われても、顔を上げることは許されず、将軍の顔を正視することもできなかった。まして直接話を交わすなど、あり得ない。拝謁空間で、同じ時間と空気を共有していたに過ぎない。大名や旗本でも、将軍の顔を知っている者が非常に少ないのは、このためだ。江戸城とは、将軍の御威光を身をもって体感する空間だった。 「御意之振」と呼ばれた文書が、徳川宗家文書の中に残されている。将軍の肉声を伝える信憑性の高い史料は少ないが、江戸城内で将軍が大名たちを謁見する時に掛ける言葉が、そこには書き留められている。これは、謁見というセレモニーのためのセリフが書かれた台本に他ならない。将軍が発する言葉は、あらかじめ決められていたのだ。 何か役職を命じる時は「念を入て勤い」。大名が江戸から国元に戻る際には「在所への暇をやる、休息するように」というような言葉を掛けることになっていた。言葉は短く、いわばワンフレーズである。その方が強く印象に残るだろう。将軍の御威光が演出されている様子がよく分かる。幕政の舞台裏をうかがわせる貴重な史料だ(『徳川将軍家と会津松平家』福島県立博物館、二○○六年)。 たとえ江戸城に登城しなくても、人々は将軍の御威光を体感させられる。将軍が江戸城から市中に出て来るや、その御威光が一目瞭然となる演出が施されるのだ。 将軍が江戸城外に出ることを、御成と呼ぶ。御成とは古来より、皇族や摂政・関白など、朝廷の最高実力者が外出することを意味する言葉だが、この時代は主に、将軍の外出を指す。将軍は上様とも呼ばれたが、「上様御成」というフレーズは、テレビ時代劇でもお馴染みだろう。 将軍が通過する道筋は御成道として、厳重な規制が敷かれた。御成道沿いの屋敷の窓や雨戸のすき間には、紙で厳重に目張りされた。将軍をはるか遠い存在にするための演出というわけだ。現場はピリピリした雰囲気に包まれる。行列に土下座するのはもちろん、当日は火が一切使えないなど、江戸の人々の生活は大きく規制された。 将軍が大名屋敷を訪問することもあったが、いざ御成となると、お迎えする大名側は大変だ。莫大な費用を投じて接待しなければならず、財政に深刻な影響を与えた。将軍の子女を当主(妻)に迎える場合も同じだ。東京大学の象徴たる赤門が、加賀百万石の前田家が十一代将軍家斉の娘を迎えるために造られた御殿(御守殿と呼ばれた)の表門であることは有名だろう。将軍への敬意を示す一つの形なのだ。 将軍に献上される品に対しても、あたかも将軍その人であるかのような作法が求められた。例えば、将軍への献上茶を入れた御茶壺の道中に出会えば、大名といえども、道を譲って駕籠から下りなければならない。徳川ブランドを象徴する葵の力は絶大だった。葵の御紋にひれ伏す場面は、決して虚構の世界の話ではないのである。 このため、将軍の権威をふりかざした所行に、目に余るものがあったのも事実だ。御茶壺が通過する道筋の庶民などは、後難を恐れて家の戸をピシャッと閉め、通過するのをひたすら待った。童謡「ずいずいずっころばし」の、「茶壺に追われてトッピンシャン」というフレーズは、それを歌ったものであることはよく知られている。 しかし、将軍は江戸の社会にデメリットばかりをもたらしたのではなかった。将軍とゆかりがある御陰で、有形無形のメリットも数多く生まれた。江戸っ子が将軍の御膝元であることに強い誇りを持ち、優越感に浸っていたのも、また事実なのである。 実は将軍側も、江戸っ子に自分との一体感を感じさせるようつとめている。江戸っ子を氏子とする神田明神(現神田神社)や山王権現(現日枝神社)のお祭り(天下祭)の時は、神輿を担いだ祭礼行列が江戸城に入ることを許され、将軍の上覧を受けた。将軍も一緒に参加して、江戸の祭りを盛り上げたのだ。将軍に慶事があると、町人の代表を城内に招いて、能を一緒に鑑賞することもあった。こうした将軍との一体感を演出することで、江戸っ子気質が生まれ育まれていくのだ。江戸城の主である将軍の存在なくして、江戸っ子の心意気などあり得ない。 現代の東京を眺めてみると、将軍とのゆかりを伝える事物が数多く残されている。東大構内の三四郎池は、前田家が将軍の御成をお迎えするため造成した庭園の池だった。都営地下鉄三田線の御成門という駅名も、増上寺の将軍家霊廟に建立された、御成を迎えるためだけの御成門に由来する。新潮社のある東京都新宿区の矢来町という町名は、将軍の訪問を受けた小浜藩酒井家が、将軍を守るために設けた竹矢来から生まれた。 将軍との由緒をアピールした寺社の数も実に多い。現代でも時代の有力者との由緒は重要な観光資源だが、この時代は将軍が参詣すると箔が付き、ステータスが高まったのだ。寺社に限らず、将軍が訪れただけで、はたまた葵の紋所が付いたものを拝領するだけで、訪問地の評判は高まり、大きな経済効果がもたらされた。集客効果は抜群で、川崎大師はその最たる例だ。現在、明治神宮、成田山新勝寺とともに、初詣の人出のベスト3にランクされるまでになったのは、将軍家斉が厄除けのため参詣したからに他ならない。このため、寺社による将軍の誘致合戦はすさまじかったようだ。 将軍との関係にメリットを見出す動きは活発だったが、それが御威光を支えてもいた。このメカニズムの上に、江戸の社会は成り立っていたのである。江戸という大舞台の主役たる徳川将軍家は、江戸っ子という観客の眼に、どのように映っていたのか。そして、どのようにして、その御威光は江戸っ子の心に入り込んでいったのか。水戸黄門の印籠に象徴される葵の威力(魔力)、徳川将軍家の御威光のメカニズムを解き明かしていく。 |