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カラオケ秘史―創意工夫の世界革命―
烏賀陽弘道

世界中の音楽はもちろん、生活スタイルまでも変えてしまったカラオケ。その成り立ちを調べ始めた著者は、次々と意外な事実を発見する。これまで伝えられていなかった「真の発明者」の存在、カラオケボックスが岡山のうどん屋から生まれた背景、原子力博士が通信カラオケを開発した事情……。音楽を愛し、創意工夫を欠かさなかった男たちの情熱とアイディアが結実するまでを描く。カラオケの正史にして決定版。

ISBN:978-4-10-610292-9 発売日:2008/12/17


| 714円(定価) |
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カラオケ秘史―創意工夫の世界革命―
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世界のイノウエに
シンガポールに本社を置く衛星放送テレビが、世界初のカラオケ専門チャンネル「KTV Channel」をスタートさせる。ついては、その開局セレモニーを日本で開き、カラオケの発明者を招きたい。そんな問い合わせが、日本のPR会社を通して、香港に本社を置くニュース週刊誌「Far Eastern Economic Review」(現在は月刊誌)東京支局の記者だった坂巻幸子のところに入ってきた。坂巻の記憶では一九九六年のことである。このとき、問い合わせてきたPR会社はすでに「イノウエ・ダイスケ」の名前を出していた。
実はその直前、「全国カラオケ事業者協会」の事務局に「カラオケの発明者は誰なのか」という問い合わせが入っている。それに答えた専務理事の片岡史朗の話を聞く限り、坂巻に連絡をしてきたPR会社と同じ会社と思われる。片岡は、本章の冒頭に述べたような理由で返事に窮した。「発明者」が誰かなどと、うかつに答えることができないからである。片岡は慎重に言葉を選び、カラオケを「最初にビジネス化した人」として井上大佑の名前を告げた。
「KTV Channel」の開局セレモニーは、「カラオケ生誕の地」として神戸駅前に特設ステージを設けて執り行われた。アメリカ人社長を含め十人ほどが来日。井上は社長と並んで壇上にのぼり、カラオケを世の中にシステムとして送り出した人として紹介され、拍手を浴びた。
自分でも「カラオケの発明者」に興味を持った坂巻は、九六年七月、東京から神戸へ行って井上を探し出し、インタビューした。その結果は九六年八月八日号の「FEER」誌に一ページの写真つき記事として掲載される。これが井上を「カラオケの父」として英語で紹介した最初の記事である。
当時、カラオケの創始者について英語で記述した文献はほかに見当たらないから、「タイム」が「カラオケの発明者」として井上を選んだ根拠はこの記事だと判断していいだろう。坂巻は、九九年の「タイム」誌の取材にも、通訳兼取材者としてフリーランスのピコ・アイアー記者に同行して神戸を訪れ、井上に再度インタビューしている。
こうして、珍妙なことが起きた。「タイム」誌の特集まで、「カラオケの発明者」に日本のメディアはほとんど関心を払っていなかった。ノーマークだったのである。それが外国の英語メディアを迂回して、いきなり世界の名門誌「タイム」に登場したものだから、「井上=カラオケの最初の発明者」という誤認が日本のメディアにばらまかれて、そのまま大いに盛りあがってしまった。こうなると、井上以前にカラオケ機器をつくっていた人物がいた、という事実が誰にも言い出せなくなった。それで全国カラオケ事業者協会は井上のことを「カラオケの発明者」と言わず「カラオケを初めてビジネス化した人」と表現しているのである。
幻の発明者
さて、それではいよいよ、本当に「日本で初めてカラオケ機器をつくった男」にご登場願おう。東京・板橋で電気部品の組み立て工場を経営していた根岸重一である。
板橋は東京二十三区の北西部にあたる。地下水や河川など水利と土地が豊富で、また都心に比べて戦災の被害が少なかったため、朝鮮戦争(一九五〇~五三年)の特需を背景に、従業員規模が百人以下の中小工場、いわゆる「町工場」が急増した。また戦前には周辺に光学兵器工場が散在したため、戦後は職を失った光学、伸銅、化学といった精密機械産業の技術者が興した小さな会社が集まり、一九五〇年代はちょっとした「シリコン・バレー」的な活況を呈していた(以下は根岸本人の話による)。
根岸は一九二三年に生まれた。法政大学経済学部を出て大倉組(大成建設の前身)に就職するが、兵役に就き、オリンパス光学工業や電気部品メーカーに入ったあと、一九五六年に電気部品の下請け会社として独立、「日電工業」という会社を資本金三千万円、八十坪ほどの土地でスタートさせた。当時の大きな仕事は、家庭用・ポータブルのラジオや、カーステレオ、カーラジオの組み立てだった。
六七年の夏のことだ。当時、民放ラジオで毎朝七時から「歌のない歌謡曲」(後述)という番組を放送していた。流行歌の歌抜きの演奏だけを、十五分間、三曲ずつ流すのである。軍隊経験のある根岸は、軍歌を歌うのが大好きだった。バタやんこと田端義夫の大ファンでもあった。そんな根岸は、この番組を聞きながら仕事を始めるのが毎朝の習慣だった。その日も、ラジオ放送をバックに鼻歌を歌いながら、一階の自宅から二階の工場へと上がっていった。
それを横で聞いていた技術部長が「社長、歌うまくねえな」とからかった。「何言ってんだ」とやり返す根岸の頭にふとひらめくものがあった。
「おれ、歌うのが好きなんだけど、テープの音楽に乗せておれの声が出たらおもしろいんじゃないかな」
そういうと、技術部長は「そんなもの、すぐできますよ」と言った。「本当か? じゃ、やってみてよ」と根岸がいうと、二、三日してマイクアンプ、ミキサー、8トラテープ再生機の回路だけをつないだ試作品をつくってきた。
試しに、児玉好雄の流行歌「無情の夢」(昭和十年)をかけて歌ってみた。
「『うわあ、不思議だなあ』と思うと同時に『やったあ!』と思いました。とにかく気持ちがよかったんです。これはおもしろい、絶対に商売になるぞ、と」
根岸は「世界で初めてカラオケが歌われた瞬間」をそう振り返る。

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